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コラム

編集部
AFTER SUGIHARA SETSUZO KOTSUJI's AID TO JEWISH REFUGEES 命のバトンをつなぐ人々Part 8-1

2019-06-22


(左から)リーベ・ゲフト寛容博物館館長、広瀬佳司氏、山田純大氏による質疑応答セッション

 寛容博物館で3月27日に開催された「After Sugihara Setsuzo Kotsuji's Aid to Jewish Refugees」(在ロサンゼルス総領事館、サイモン・ウィーゼンタール・センター、日米文化会館が共催)にて、俳優で『命のビザを繋いだ男ー小辻節三とユダヤ難民』の著者、山田純大氏とノートルダム清心女子大学教授の広瀬佳司氏が行った講演を振り返りながら、小辻の功績を紹介するパート8(最終回)。

 小辻節三の二人の娘さんに会って、小辻の死に際の言葉を知った山田氏。「杉原千畝からビザを発行したもらったユダヤ人は、その後どうなったのか?」という疑問から始まった山田氏のリサーチも、徐々に進む方向性が定まっていく。


 「100年以内に、私を理解する人が現れるだろう」

 これは、小辻節三が亡くなる間際に言った言葉だ。山田純大氏が初めて小辻の娘さん、メリーさんとジュリーさんに会った時に、娘さんが教えてくれたそうだ。

 二人の娘さんはどんな気持ちで最愛の父親の大切な言葉を、山田氏に伝えたのだろうか?

 この時、メリーさんもジュリーさんもすでに80歳前後、独身のまま、二人きりで支え合いながら人目を避けるように生きてきたそうだ。

 しかし、突然現れた男性が父親が書いた自叙伝『From Tokyo to Jerusalem (東京からエルサレムへ)』 を広げ、どれだけ父親に対して感動したのかを話す姿を見て、二人は父親と山田氏との間に、何か、運命的なものを感じたのではないだろうか。また二人も父親の言葉を信じて、“その人”が現れるのを待っていたのではないだろうか。

 一方、小辻の言葉を聞いた山田氏は衝撃を受けたらしく、その後の執筆活動や翻訳作業などで気持ちが萎えそうになった時に、この言葉によって支えられ、再び前進し、小辻についての著書を出版することにこぎつけたそうだ。

 ほとんどの日本人は、ユダヤ人がナチス・ドイツから迫害され、ホロコーストが起きたことを知っているだろう。しかし、ナチスから逃れるためにヨーロッパを脱出したユダヤ人難民を助けた日本人たちがいた事実については、あまり知らないだろう。

 現在よく知られるようになった杉原千畝については、リトアニア・カウナスの日本領事館で杉原が発行したビザによって生き延びたジョシュア・ニシュリ氏が、1968年に杉原の居場所を探し出したことがきっかけで世界に知られるようになった。杉原自身が戦時中のことについて話すことはなかったようだ。

 その後、多くのユダヤ人が杉原の“命のビザ”で生き延びたと証言し、1985年、イスラエル政府は「ヤド・バシェム賞」(諸国民の中の正義の人賞)を杉原に授与した。

 小辻についてはどうかというと、山田氏や広瀬佳司氏などが、いろいろな機会に講演しているようだが、まだまだ知られていない。

ー ユダヤ人は忘れない ー

 山田氏は、講演で、小辻について取材するためにイスラエルのミール・イェシーバー(ミール神学校)を訪問した時のエピソードを披露した。

 ミール・イェシーバーは、第二次世界大戦前、東ポーランドの町、ミール(現在のベラルーシ)にあった。ソ連とドイツがポーランドを二分すると、ミール・イェシーバーのラビと生徒はリトアニアに逃げた。しかしソ連がリトアニアも占領し、共産主義を押し付け、宗教は禁止した。リトアニアに逃げてきた多くのユダヤ人たちは一刻も早くリトアニアを脱出しようと、カウナスの日本領事館にいた杉原領事代理にビザ発行を申請した。

 結果として、2139のビザが杉原によって発行され、その中にはミール・イェシーバーのラビと生徒全員が含まれていた。彼らは日本まで逃げ延び、日本到着後は、彼らの命のバトンが、ヘブライ語学者の小辻へと引き継がれた。

 山田氏はイスラエルのミール・イェシーバーがある地域に入った時の感想を次のように語った。

 「とても強い特別なスピリットをすぐに感じました。歩きながら少しナーバスになって、自分がよそ者な感じがしました」

 学校内に入るとさらに排他的な雰囲気を感じ、受付けでは大勢のユダヤ人たちに囲まれたそうだ。

 そんな状況で山田氏は「東京から来ました。戦中、日本に来た多くのユダヤ人難民を助けた男性のリサーチのために来ました。彼の名前は、アブラハム小辻です。この名前を聞いたことはありませんか?」と言うと、受付けの男性が「あ〜、小辻について本を読んだことがあります。私の妻の祖母はモントリオールで彼に会ったことがありますよ」と答えた。彼が周りの人々にこのことを説明すると、その場の空気は一変し、「グッドラック!」と山田氏に声をかける人も出てきたそうだ。

 ユダヤ人難民が日本を出発してから70年以上が経っていたというのに、世代も変わったというのに、ユダヤ人は自分たちを救ってくれた小辻を忘れてはいなかった。

 1936年、日本とドイツはすでに同盟関係だったため、ナチスの親衛隊が訪日しており、日本の特別高等警察や憲兵隊と連携して反ユダヤ主義を広げる活動を活発化していた。そんな中で、小辻は日本に到着したユダヤ人難民を助けていたのだから、さぞや敵も多かっただろう。

 当時、小辻が命を狙われていたことを証明する書類などは未だ見つかっていないが、小辻の身に危険が迫っていたことが分かるエピソードを山田氏はある書物の中に発見した。

 それは、日本へ逃げてきたラビ・ピンハス・ヒルシプルグの回顧録『From the Nazi Vale of Tears(ナチスの涙の谷間より)』に書かれていた。

 ラビ・ヒルシプルグはカナダに到着すると、「小辻教授が殺された」という記事を地元紙で読んだ。ナチスや日本の憲兵隊が小辻を亡き者にしたがっていたので、どちらかに小辻は殺されたというのが、ラビ・ヒルシプルグの考えだった。そして彼はカナダで小辻のための追悼式を執り行った。

 後ほど小辻が生きていることが分かり、二人は再会を果たすのだが、「小辻が殺された」という誤報が出たほど、そして友人のラビ・ヒルシプルグさえ信じてしまうほど、小辻の命が狙われていたことはある意味、周知の事実だったのはないだろうか。

つづく


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▶︎ 3-1
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▶︎ 8-2


※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。
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