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コラム

編集部
AFTER SUGIHARA SETSUZO KOTSUJI's AID TO JEWISH REFUGEES  命のバトンをつなぐ人々 Part 1

2019-04-20


(左から)リーベ・ゲフト寛容博物館館長、広瀬佳司氏、通訳の内藤あすか氏、山田純大氏による質疑応答セッション



 「日本のシンドラー」と呼ばれているリトアニアの元・在カウナス日本領事館領事代理の杉原千畝が、1940年、2139人のポーランド系ユダヤ難民たちに“命のビザ”を発行した。

 さて、その後、ユダヤ難民たちは、安全な地にたどり着けたのだろうか。

 杉原が発行したビザが“命のビザ”として活かされた背後には、その後にもユダヤ難民を支援し、救った人々がいたからだ。その中で、大きな役割を果たしたのが、日本人のヘブライ語学者、小辻節三だった。


杉原千畝(左)、小辻節三(右)(両写真とも出典は「AFTER SUGIHARA SETSUZO KOTSUJI's AID TO JEWISH REFUGEES」のプログラム)


 3月27日、ロサンゼルスにあるサイモン・ウィーゼンタール・センターの寛容博物館にて「After Sugihara Setsuzo Kotsuji's Aid to Jewish Refugees」と題した講演会が開催された。

 講演者は、ノートルダム清心女子大学教授の広瀬佳司氏と俳優の山田純大氏。広瀬氏は、杉原千畝・小辻節三に関係する歴史的、思想・宗教的な背景を説明し、これまでの解釈では不十分な点を指摘しながら、二人の接点をまとめて講演した。一方、山田氏は、小辻の家族との交流を通し、著書『命のビザを繋いだ男 小辻節三とユダヤ難民』を執筆するまでの経緯や小辻の活動について講演した。

 この二人の講演を振り返りながら、小辻節三の功績を紹介する。



 「After Sugihara Setsuzo Kotsuji's Aid to Jewish Refugees」は、サイモン・ウィーゼンタール・センターと寛容博物館、日米文化会館、在ロサンゼルス日本国総領事館が共催して開催され、参加者は200人を超えていた。

 最初の講演者、広瀬佳司氏が、まず引用したのが、1940年12月31日に外務大臣の松岡洋右が、プライベートパーティーでユダヤ人のビジネスマンに言った言葉だった。

“I am the man responsible for the alliance with Hitler, but nowhere have I promised that we would carry out his anti-Semitic policies in Japan. This is not simply my personal opinion, it is the position of Japan.”
(和訳:「私はヒトラーとの同盟の責任者ですが、私達が日本で彼の反ユダヤ主義政策を実行することを約束したことなどありません。これは私の個人的な意見ではなく、日本の立場です」)

 松岡外務大臣のこの発言は、杉原千畝が2139人のポーランド系ユダヤ難民にビザを発行した5ヶ月後のことではあったが、広瀬氏の講演によると、1938年12月6日の時点で、日本政府の政策決定の最高機関が、以下の結論に達していた。

 日本、満州、中国で暮らしているユダヤ人は、他の外国人と同じく公正に扱われること。

 1939年、杉原はリトアニアのカウナスに領事館を開設するよう命じられた。同年、ドイツ軍がポーランドに侵攻したため、ポーランド系ユダヤ人はリトアニアに避難してきた。ナチスは勢力を広げていたため、ユダヤ人難民にとって、さらに東へ進むしかなかった。

 しかし、ソ連は、通過ビザがある者だけにソ連を通る許可を出していたため、日本の領事館からビザが発行されるかどうかが、生死の分かれ目となった。

 1940年7月のある朝、杉原が目を覚ますと、領事館の前に多くのユダヤ人がビザを発行してもらおうと詰め掛けていた。杉原は3回、日本の外務省にビザ発行の許可を取ろうとしたが、3回とも拒否された。

 ドイツ軍が到達するまで時間がなかった。杉原は、ビザを発行しなければユダヤ難民が死ぬのは分かっていたので、外務省から首になるのを覚悟して、7月31日、ビザ発行を開始した。

 杉原が8月28日までに発行したビザは、2139にも上った。人数にすると約6000人が、リトアニアを出発し、シベリア鉄道で日本を目指した。

 ユダヤ人難民が、福井県敦賀港に到着し始めたのは、1940年9月下旬だった。杉原が発行したビザで日本に滞在できる時間は、たったの10日間だった。最終的に避難する国もまだ決まっていなかった。

 しかし時間だけが過ぎ、ビザの有効期限が迫ってきていた。そして、ユダヤ人難民らが途方に暮れているという知らせが、ヘブライ語学者の小辻節三の元に届いた。

講演をする広瀬桂司氏


(つづく)

=Tomomi Kanemaru


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※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。
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