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特集記事



JANMへ行こう!! vol.69 - 最終回 - 日系四世が語る「JANMの挑戦と美しさ」


今月のガイド
ラッセル・ツダ さん

日系四世。1999年にJANMのボランティアを開始。現在は、仕事の傍ら、次世代のコミュニティリーダーを育成するRising Starプログラムの会長としても活躍している。義父母もJANMボランティアで、2008年にはFamily Spirit Awardを受賞。



語られないから知りたい



ツダさん家族。ビッキー夫人(左から3人目)とはJANMで出会った
私が初めて日系人の強制収容所について知ったのは、10年生の時のアメリカ史の授業でした。教科書にとてもとても小さい分量で、たしか「西海岸の日本人とアメリカ生まれの日系アメリカ人、12万人が収容所へ送られた」という内容だったと思います。教科書には抑留所(internment camp)ではなくて、強制収容所(concentration camp)と書かれていました。そしてマンザナ収容所の写真も一緒に掲載されていたと思います。
教科書で日系人の強制収容について読んだ時は、自分の家族の歴史の一部だという認識はなかったのですが、父や父の家族がアーカンソー州ジェロームの収容所へ送られたという事実を知ると、初めて“自分の家族史なんだ”という自覚が芽生えました。

両親の祖父は二人とも和歌山県出身の一世で、母方の祖母はハワイ生まれ、父方の祖母はカリフォルニア州生まれです。第二次世界大戦中、母方の家族はハワイで暮らしていたので強制収容されませんでした。
父たちが入れられたジェローム収容所は日系人収容所の中で一番最後にオープンして一番最初に閉鎖されました。そのため父たちの家族は約1年半だけ収容所で暮らし、1944年中旬にはワシントンDCに移り、祖父が就職先を見つけたので、しばらくの間は東海岸で暮らしました。

私の家族は第二次世界大戦中のことをほとんど話しませんでした。父は1935年にサクラメントで生まれて、7歳と幼い頃に収容所へ入れられたので、収容所での記憶は遊んだことしかないようで、父の感覚としてはサマーキャンプへ行ったような感じだったようです。当時、伯母は高校生でしたからいろいろと覚えていたでしょうけれど、戦争中の体験についてはほとんど語らず、祖父母に関しては一度たりとも話しているのを聞いたことがありませんでした。家族が戦争中の体験を語らないからこそ、私は収容所の体験がどんなものだったのかを知りたくなりました。


ボランティアのきっかけ



小さい頃から、日本食を買うためにリトル東京へは家族と一緒に行きました。1992年にJANMがオープンすると、私たち家族はみんなで展示を見にいきました。私は日系人の体験をもっと学びたかったので、新しい展示がある度に家族とJANMを訪問したり、日系史の本を読んだりしました。日系人の体験を学べば学ぶほど、コミュニティに恩返しをしたいという思いが強くなり、いつかはJANMでボランティアをするのかなぁと思うようになっていました。

小さい頃はガーデナ市に住んでいたので、日系イベントにはよく参加しましたが、2年生でサウザンドオークスに引っ越してからは白人の友人ばかりで日系コミュニティから遠ざかっていました。大学卒業後、もう一度コミュニティと接点を持ちたい、ボランティアとしてコミュニティに関わりたいと思い、ボランティアをする組織を探しました。
1999年1月にJANM新館がオープンすると、早速、両親と一緒に展示を見ました。旧館がオープンしてたったの7年間で、多額の資金と協力を集めて、とても大きくて立派な新館を建てるなんてすごいと驚きました。短期間ですごいことを達成する組織なのだから、ボランティアが鍵となって運営されているすばらしい組織だろう、より多くの日系人の体験を私は教えてもらえるだろうと思い、「私がボランティアをするのはJANMだ」と決意して翌月の2月からボランティアを始めました。


JANMが特別な理由



JANMの日系二世のボランティアと接することで、私の習慣や考え方がどこから来たのを知ることができました。両親は「家の恥になることだけはするな」とよく言いました、私はこれは両親の考え方だと信じていましたが、この背景には日本文化や哲学がありました。また“遠慮”という私の性格も日本人的なんだと納得しました。両親は教えてくれませんでしたが、JANMでのボランティアを通して自分の日系人・日本人気質を発見しました。
戦中の収容所を体験した日系人から、収容所での生活が本当はどんなものだったかを聞くことは私には衝撃的でした。例えば、生活には適さないひどい環境を皆さんが工夫を凝らして日本庭園を造った話など衝撃でした。話に良いも悪いもなく、私の目は開かれ、私は教育され、お陰でより広い視野を持つことができました。
私がボランティアを始めた頃、収容所を体験した二世ボランティアガイドがたくさんいました。しかし高齢のため減少しています。一世や二世たちの体験を、戦争体験がない私たちが「学びたい、聞きたい」と興味を持ち、次世代のガイドとして受け継ぎ、来館者たちへ語る。これはJANMの挑戦であり、これがJANMの“美しさ”だと私は考えます。

日系二世から直接に話を聞いたガイドもいない未来においても、JANMには一世や二世たちのインタビュービデオや彼らのストーリーを伝える写真や品物など多くの資料が展示され、保管されています。私たちには“戻る”オリジナルストーリーがあるのです。
なぜ私たちJANMのボランティアは、第二次世界大戦中の日系人の体験を話し続けているのでしょうか? それは「日系人が第二次世界大戦中に体験したことは、どの国籍の人にも、どんな民族グループにも二度と起きてはならない」と伝えるためです。いまだに日系人強制収容を肯定する人々がいます。「他の民族グループの人々を強制収容してもいい」という考えを持つようになることは、とても恐ろしいことです。
JANMのボランティアはミッションを遂行するJANMに、固い意志を持って長年、自分自身を捧げています。このボランティアの姿勢と精神は他の組織と異なると経験上感じます。これがJANMを特別な場所としている所以の一つではないかと私は考えます。


文・構成 Tomomi Kanemaru(日刊サン)


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入館料お支払いの際に「日刊サン掲載の『JANMへ行こう!!』を読んだ」と言うと、『ワシントンへの道 ~米国日系社会の先駆者 ダニエル・イノウエ議員の軌跡 ~』と『知られざる政治家 ラルフ・カーとニッポン人』の2つの日系移民史ドキュメンタリーが入ったDVDを特別プレゼント。昨年末に亡くなった大統領継承順位第3位のイノウエ議員のインタビュー入り。非売品なので貴重なDVD!
*入館料をお支払いの上、入館された方のみ対象。




JANM・ジャニム(全米日系人博物館)
Japanese American National Museum
日系アメリカ人の歴史と体験を伝えるアメリカ初の博物館。アメリカの人種と文化の多様性に対する理解と感謝の気持ちを高めることが目的。ボランティア・ガイドに支えられ、訪問者は展示にはない興味深い話を聞くことができる。

100 N. Central Ave. Los Angeles, CA
・213-625-0414
http://www.janm.org
開館:火・水/金・土・日 11:00 ~17:00
木 12:00 ~20:00
休み:月曜
料金(企画展も含む):一般9ドル、シニア&学生&子供5ドル、メンバー無料
*木曜17:00 ~20:00、毎月第3木曜は無料
交通:メトロ電車:ゴールドライン「Little Tokyo / Art District」下車。徒歩1分
駐車場:あり。博物館前、他多数(有料)

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