JANMへ行こう!! vol.29 - 忠誠登録27番と28番の答えと背景を聞く
今月のガイド
リチャード・ムラカミ さん、マサコ・ムラカミ さん
リチャード・ムラカミ 1932生まれの日系三世。元カリフォルニア州の監査官。ツールレイク、ジェローム、ハートマウンテンの3カ所の収容所を移転した稀な経験をした。
マサコ・ムラカミ 1934年生まれの日系三世。元家具店マネージャー。JANMの初代ボランティアの一人。ツールレイクの収容所では日本人が教える学校に通ったので日本語を話す。
―ムラカミさんご夫妻は、それぞれ別の時期にツール・レイク収容所に送られました。
マサコ「父が忠誠登録の質問27番と28番に『No、No』と答えたので私の家族はツール・レイクに1943年頃送られました。祖父は山口県にいて父は長男だったので、日本へ家族全員で帰るつもりで『No、No』と答えたんだと私は思っていました。けれど父は『アメリカ政府が私たちを収容所に入れたことに非常に腹を立てたから』そう答えたと、亡くなる2年前に話してくれました。特にツール・レイクに収容された日系人たちは、忠誠登録に『No、No』と答えた“悪い人”と見られるのが嫌で、ツール・レイクに収容されたとは言いたがりません。『No、No』と答えた人は勇気があり政府に反対するのを恐れなかった人です。もしかしたら、多くの日系人が、本当はそう答えたかったのかもしれません」
―「No、No」と答えたから“忠誠ではない”とはいえないです。
リチャード「私の家族は、最初にツール・レイクに送られ、忠誠登録の27番と28番に『Yes、Yes』と答えたのでジェロームに移されました。しばらくすると、そこにドイツ人捕虜を収容するというので、今度はハートマウンテンに移されました。当時、私の兄弟二人が広島にいたので、父は日本に帰国するつもりで『No、No』と答えようとしました。けれど母が『日本でどうやって生活していくのか』と心配しました。また父はアメリカ政府を心底信頼していたので、最終的に『Yes、Yes』と答えました。『No、No』と答えた人たちは、それぞれ理由があり、彼らの置かれていた状況を理解しなければなりません。マサコの父親のように、政府に怒って『No、No』と答えた人たちもいます。私たちはアメリカ市民だったにも関わらず、犯罪を犯したわけでもないのに、肌の色が違うということで強制収容されたのです」
マサコ「最近は『No、No』と答えた日系人たちは“政府に抗議するガッツがあったヒーロー”だと見るムーブメントがあります。戦後、多くの日系人の親が収容所について子供たちと話さなかったので、日系人でも日系史をきちんと知らない人がいます。だから日系移民の歴史を展示して継承するJANMが、必要なのです」
■ツール・レイク収容所:1943年の忠誠登録の結果から不忠誠者の隔離センターとして設立され、反米的日系人が収容された。熱狂的親日派とアメリカに希望を託す人々による政治的対立が発生したため自治組織は認められなかった。日系人の収容所のなかで一番最後に閉鎖されたが、その間、混乱と騒動が継続した。
■忠誠登録:1943年初頭、アメリカ政府は長期化する戦争でかさむ収容所の経費を抑えるために、収容所から日系人を出して西海岸から離れた場所に住まわせ、労働不足の工場や農場で働かせようとした。また不足してきた兵士を補うために日系人の志願者を募ったり徴兵しようとした。そこでアメリカ政府は、「敵性外国人」として収容した日系人にたいし合衆国への忠誠を問うという矛盾した行為を行った。アメリカへ忠誠を誓わなかった者は、ツール・レイク収容所のような特別な収容所へ連衡された。
■質問27:あなたは命令を受けたら、いかなる地域であれ合衆国軍隊の戦闘任務に服しますか?
■質問28:あなたは合衆国に忠誠を誓い、国内外におけるいかなる攻撃に対しても合衆国を忠実に守り、かつ日本国天皇、外国政府・団体への忠節・従順を誓って否定しますか?
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「山崎豊子著『二つの祖国』の実像を追う!②」
前号では『二つの祖国』の主人公、天羽賢治のモデルと思われる加州毎日新聞社の藤井整氏に触れた。今号でも、モデルの一人となる人物の実像を追う。
第二章「強制キャンプ」で、「天羽賢治は、ロサンゼルスのユニオン・ステーションに着いた。―(中略)ジャップと罵られ、イエロー・ドッグと足蹴にされても、ロサンゼルスはわが町であった。賢治は加州新報社に向かった。ロサンゼルス・リバーの手前の加州新報社の社屋に辿り着くと煉瓦建て3階の正面の扉には、大きな貼紙が貼り付けてあった。『お別れの時が来ました。明日で休刊します』」とある。
当時の加州毎日新聞社で編集長をしていた伊丹明氏も天羽のモデルの一人とされる。彼の後の生きざまが物語の主軸となって展開されることに由来する。伊丹氏は、強制立ち退きの始まった1942年3月21日付けの加州毎日新聞に「やむなく一時休刊」の見出しで社説を掲載している。「我社としてはここに、社員の一人一人が一日も早く立退き準備を整える機会を得るよう、一時休刊の方針を決定したのである。(中略)終りに臨み、開戦以来公正な態度をとられた政府当局に感謝し、社長のいない加毎社員に後援と激励をくださった日系人の皆様に心から御礼を申し上げます。藤井社長もニューメキシコの館府にあって皆様のご厚意に感謝しご多幸を祈っておられる事と信じます。(伊丹)」(出所:一世パイオニア資料館)
これらの言葉に藤井社長逮捕後、日本から移民してきた日系一世の心の拠り所となっていた日本語新聞を必死に守ろうとする思いと、政府当局への配慮とのぎりぎりの線で格闘する一人の編集人の姿が見てとれる。その後、彼を含む日系人たちは一旦、ロサンゼルス周辺地域から退去を始める。
同章の冒頭に「サンタ・アニタの競馬場にはSPECIALと標示されたバスが続々と到着し(中略)立退き命令が出、行先はサンタ・アニタの競馬場と聞いて、アメリカでも屈指の大競馬場のスタンド下の建物に収容されるのではないかということだった。(中略)33番のアパートとは。扉の上半分は馬が首を出して秣(まぐさ)を食べられるように開き、下半分だけが、板張りであるから、中が丸見えであった。一頭の競走馬が繋がれていたところに、5人の家族が住めというのか!ジャップは馬よりも劣るというのか!乙七の握りしめた拳が震えた」とある。
事実、日系人は収容所に送られる前にアッセンブリー・センターであるサンタ・アニタ競馬場で暮らした。「馬小屋には白いペンキを塗って、下はアスファルト。そこで私達家族4人と叔母といとこをあわせて6人で一つの馬小屋で生活していた。隣の声やいびきも聞こえた。夏になると馬糞の臭いで中にはいられなかった」とターミナル・アイランダ―ズ会長の藤内稔氏は証言している。
天羽賢治や彼の家族は特定の人物や家族がモデルになっているのではなく、サンタ・アニタの厩舎で、人権、人道を踏みにじられ、差別されつつも必死に耐え、誇りを持ち続けた多くの日系人すべてがこの物語のモデルである。
今日3月29日は、サンタ・アニタの競馬場でTOKYO CITY CUPが開かれ、日米交流の「ジャパン・ファミリー・デー」が 催される。当競馬場の土には苦闘に耐え抜いた日系人の尊い汗と涙が染み込んでいる。こうした日系人の苦難の戦いの果てに今日の日米の友好的で協力的な各種イベントが開催できることを、この機会を通じて知ることができれば幸いである。
写真・文 HIROTAKA AKAIWA 写真・文・構成 TOMOMI KANEMARU
JANMに行くと日刊サン読者にプレゼント!
入館料お支払いの際に「日刊サン掲載の『JANMへ行こう!!』を読んだ」と言うと、『ワシントンへの道 ~米国日系社会の先駆者 ダニエル・イノウエ議員の軌跡 ~』と『知られざる政治家 ラルフ・カーとニッポン人』の2つの日系移民史ドキュメンタリーが入ったDVDを特別プレゼント。昨年末に亡くなった大統領継承順位第3位のイノウエ議員のインタビュー入り。非売品なので貴重なDVD!
*入館料をお支払いの上、入館された方のみ対象。
JANM・ジャニム(全米日系人博物館)
Japanese American National Museum
日系アメリカ人の歴史と体験を伝えるアメリカ初の博物館。アメリカの人種と文化の多様性に対する理解と感謝の気持ちを高めることが目的。ボランティア・ガイドに支えられ、訪問者は展示にはない興味深い話を聞くことができる。
100 N. Central Ave. Los Angeles, CA
・213-625-0414
http://www.janm.org
開館:火・水/金・土・日 11:00 ~17:00
木 12:00 ~20:00
休み:月曜
料金(企画展も含む):一般9ドル、シニア&学生&子供5ドル、メンバー無料
*木曜17:00 ~20:00、毎月第3木曜は無料
交通:メトロ電車:ゴールドライン「Little Tokyo / Art District」下車。徒歩1分
駐車場:あり。博物館前、他多数(有料)
★「ボランティア・ガイド」に関心のある方は、下記まで。
213-830-5645
2014/03/29 掲載