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特集記事



JANMへ行こう!! vol.57 - 「与えられたことへ感謝する気持ちが大切」と話す帰米三世


今月のガイド
ジューン・アオキ さん

カリフォルニア州生まれの帰米三世。両親の家族は和歌山県出身。 長年にわたりアダルトスクールの進路指導をした後、JANMでボ ランティアを始め、今年で 15 年目。JANMでは日本語(和歌山弁) でツアーをしていたが、最近は折り紙を子どもたちに教えている。



― アオキさんはカリフォルニア州生まれですが、幼い頃に和歌山の母方のおばあさまに預けられて育てられたそうですね。



アオキさんが3年生の頃の写真。和歌山県のクラスメートたちとは今も連絡を取り合い、同窓会にも出席すると言う。円内がアオキさん。
1939年に私と姉は母に連れられて、両親の出身地である和歌山県に行きました。姉は父方の祖母に、私は母方の祖母に預けられて育てられました。私の幼少の頃の名前は母の旧姓を名乗ってキノ ミチコでした。

私の両親は二人ともカリフォルニア州生まれの帰米二世で、幼い頃にそれぞれの家族が和歌山県に戻ったので日本の教育を受けました。父はアオキ家の長男でしたが学校に行くのがイヤで17歳の時にアメリカに単身で戻ってきました。その後、母は知人を通して父と結婚して、アメリカに戻りました。


— アオキさんが日本に行って2年後に日米間で戦争が始まりました。和歌山ではどんな暮らしだったのでしょうか。

アメリカ軍の空爆が和歌山でもありました。空襲警報が出ると、私は祖母や友達と防空壕に入り、駆け回って遊んでいました。食べ物も何もかも不足していたでしょうけれど、私はまだ5、6歳と小さかったので分かりませんでした。祖母たちは本当に苦労したと思います。

姉は私の家から10分ほど電車で離れた和歌山市で暮らしていました。1945年7月9日、姉と父方の祖母は町外れの親戚を訪ね、その晩は友人宅に宿泊しました。和歌山市はその晩にアメリカ軍の空爆を受けて壊滅してしまいました。和歌山城の辺りは避難場所だったので、多くの人が非難していました。市内に爆弾が落ちて火災の熱風で約800人が亡くなりました。今はそこには空襲の犠牲者を追悼する慰霊碑が建てられています。姉たちは出かけていたお陰で助かりました。この日を境に、姉たちは下津にいる父方の親戚を頼って疎開しました。

戦時中はアメリカの両親とも連絡が途絶えてしまいました。しかし祖母はアメリカの母に電報を打っていたんです。この電報は母が亡くなった後に見つかりました。電報にはたくさんのスタンプが押されていて、いくつものチェックポイントを通過して、やっとアリゾナ州ポストンに強制収容された母の元へ届いたことを物語っていました。


― お母様は、その電報をずっと大事に持っていたんですね。アオキさんがアメリカに帰国したのはいつでしょうか。

アオキさんの父親ハリー・ヨシカズ・アオキさん(左)と母親のチヨコ・アオキさん(88歳のお誕生日に撮影されたもの)
7年生の時で1954年でした。両親が日本での滞在が長いと、アメリカでの教育が遅れるからと言ったので、帰国することになりました。アメリカのパスポートを申請する際に、いろいろな書類が必要だったのを覚えています。神戸のアメリカ領事館までパスポートの申請のために2、3回は通いました。姉は父方の祖母が亡くなるまで世話をしたので、アメリカに戻ったのは1960年代でした。

当時、両親はベーカーズフィールドで暮らしていて、そこに住む方のお嬢さんが和歌山県に行くというので、帰りに私を一緒に連れて戻ることになりました。船は横浜を出航してハワイ経由でサンフランシスコへ到着する予定でした。ハワイに着くと、ベーカーズフィールドで大地震があったことを知りました。付き添いのお姉さんが英語の新聞を読んでくれて、街のクロックタワーが崩れた写真が一面に掲載されていました。当時は家族に連絡する術がありませんでしたが、私はまだ子供だったので事の重大さが分かりませんでした。サンフランシスコに到着すると、父と叔父二人が迎えに来ていました。車でベーカーズフィールドに向い、街に着くとビルは倒壊していて…これが、私が初めて見たベーカーズフィールドの風景でした(笑)。


― アオキさんは戦時中は日本で暮らしたので、ご両親をはじめとする西海岸に住む12万人の日系人が強制収容されたことを知らなかったそうですね。この事についてご両親から体験を聞いたことはありますか。

他の方と同様に私の両親も収容所についてはほとんど話しませんでした。私がJANNでボランティアを始めたので母に質問をしようとしても、母は「ダメですよ」と言って話してはくれませんでした。日本人は困難にあっても文句を言わない血筋です。だから大変な時代を生きたにもかかわらず、日系人は感じたことを全て話しませんでした。
私は本当のストーリーがまだ十分語られていないと感じています。両親の苦しみが100%語られていません。きっと両親はもっと私に伝えたいことがあったでしょう。けれどネガティブなことは話したくないと全てを胸の内にしまってしまいました。私は家族の体験が聞けなかったことを今も後悔しています。だからJANMを訪問した学生たちには「お家に帰ったらお父さんお母さん、おじいちゃん、おばあちゃんに小さい頃はどんなだったの?」って聞いてごらんなさいと言います。
祖父母や両親が体験した困難は、当時の私は小さかったので語れませんが、感謝しています。戦後、父は何もないところから再出発して3人の子供を大学へ進学させて家も買いました。母も仕事をずっとしていました。すごいことです!両親は私たち子供に教育を受ける機会を与えてくれて、次へ進む機会を与えてくれました。私たちは本当に幸運です。
私は、次の世代の子供たちがこのような気持ちを持つのは大変だろうと思います。現在、彼らは物質的になっていて、全てが与えられると勘違いしてしまうでしょう。次世代の人たちが与えられたことへ感謝ができるように、なんらかのプロセスが必要だと、私は思っています。 



写真・文・構成 Tomomi Kanemaru(日刊サン)


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JANM・ジャニム(全米日系人博物館)
Japanese American National Museum
日系アメリカ人の歴史と体験を伝えるアメリカ初の博物館。アメリカの人種と文化の多様性に対する理解と感謝の気持ちを高めることが目的。ボランティア・ガイドに支えられ、訪問者は展示にはない興味深い話を聞くことができる。

100 N. Central Ave. Los Angeles, CA
・213-625-0414
http://www.janm.org
開館:火・水/金・土・日 11:00 ~17:00
木 12:00 ~20:00
休み:月曜
料金(企画展も含む):一般9ドル、シニア&学生&子供5ドル、メンバー無料
*木曜17:00 ~20:00、毎月第3木曜は無料
交通:メトロ電車:ゴールドライン「Little Tokyo / Art District」下車。徒歩1分
駐車場:あり。博物館前、他多数(有料)

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