JANMへ行こう!! vol.19 - 市民の権利がいかに重要かを学ぶ
今月のガイド
1939年、オレンジ郡生まれの日系三世。アリゾナ州ポストンの収容所に送られる。JPL(Jet Propulsion Laboratory:ジェット推進研究所)を退職し、JANMでボランティアを始める。たくさんの家族写真や資料を入れたiPadを駆使し、訪問者を楽しませる陽気なガイド。現在はポストン収容所の映画を制作中と話す。
—ロイさんが送られたアリゾナ州ポストンの収容所は、インディアン保護区に建設されました。
「インディアンたちは強制収容所建設のことを聞いた時、建設に反対だった。なぜならアメリカ先住民のためのインディアン保護区は“インディアンの強制収容所”だから。彼らは最初、抗議したけど、 インディアン事項事務局が次のことを彼らに伝えた。①17000人の日系人の男女と子供が収容所に入りコロラド川からの運河を建設する ②インディアンのために日干し煉瓦で作った学校を6校建設する ③2万エーカーの土地をキレイにして農業に適した土地にする ④日系人がインディアンに農業を教える。するとインディアンたちはいい取引だと思って許可したんだ。僕らはいろいろなものを建てたよ。
ポストンには日系人に感謝を表すためのモニュメントがある。政府はモニュメントさえ建てれないけど、インディアンは日系人にモニュメントを建てる土地を与えたんだ。モニュメントは消防署の隣に建てられて24時間守られている。いたずら書き一つないよ」
—ポストンは他の収容所とは違いますね。ロイさんのご両親は収容所で何をされていたんですか。
「父はコックをやっていた。スープを作るのに鰹を削らないとならないから、削り節を作るための道具も自分で作ったんだ。お箸も手作り。収容所には仕立て屋さんがいて、350人に教えたんだよ。母はそのクラスの先生だったよ。
収容所には家具を作れる人もいて、みんなに教えたんだ。父はたんすや椅子を作ったり、木で花瓶を作ったりしたよ」
―ロイさんが収容所で話していた言語は何ですか?
「父は帰米だし母も日本語を話したよ。収容所を出るまで家庭では日本語だった。けれど収容所を出た後は英語。両親は僕に日本語のアクセントを持ってほしくなかったから。収容所を離れた時、僕は英語を話せなかったんだよ」
―戦争が始まってそれまで蓄えた財産をほとんど放棄しなければならなくて、収容所ではアメリカに忠誠を誓い、戦争が終わったら日本語を忘れなくてはならなくて、アメリカ史の中でも悲しすぎる歴史の一つだと思います。JANMを訪問する方たちには何を学んでほしいですか。
「市民の権利はとても重要だと学んでほしい。これは消えてしまう可能性があるから、人々が維持していかなければならない。一番大切なことだと僕は思う。収容所は二度とあってほしくない。僕たちはチャンスのある地にいるということを、僕はみんなに思い出させたい。アメリカは今もLand of Opportunityだ」
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「スペシャリスト達によるJANM体験ツアー②」
日米で活躍中のスペシャリスト4人をゲストに招き、JANMのツアーを体験してもらった。今回は第二次世界大戦のセクショへと続く。
田島「1941年12月7日(日本時間12月8日)、日本海軍がハワイ真珠湾を攻撃し、かねてから人種差別を受けていた日系人は敵国外国人と判断され、アメリカ市民であるにもかかわららず、強制収容所に入ることになりました」

鈴木「いつも真珠湾の話をいろいろな所で聞くけれど、そんな大きな差別のきっかけになってしまったとは知らなかったです」
マック「収容所では虐殺はなかったのですか?」
田島「全くありませんでしたが、抵抗したわずかな人が銃殺されたことはありました。強制収容所には、一緒に入った白人達もいたんですよ」
マック「私の先輩に杉原千畝がいますが、彼のようにどんなに人種差別を受けても人道主義を貫く人がいたんですね」
スペシャリスト達の目に留まったのは、自ら志願し戦場に赴いた442部隊の雄姿だ。ほとんど日系二世で構成され、一世の教育を受けた彼らは、家の名誉、国の誇りをかけて戦い、多くが戦死した。
鈴木「日本人である私が、アメフトのアメリカ代表チームに選ばれ、世界を相手に戦うことに割り切れない気持ちがあったわけですから、彼らのその複雑な気持ちは測り知れません」
兵士達の勲章「パープルハート」に見入る八巻さん。
八巻「自分の命を犠牲にして、国のため、仲間のために戦った彼らは、まさに“侍”の魂そのものです」
ツアー最後は、戦後、一文無しになった日系人の社会復帰と人権運動の歴史が紹されている。

八巻「やっと強制収容所から出れたのに、また厳しい戦いだったんですね。そこで卑屈になって、ギャングになったり反社会的な行動をとってもおかしくなかったのに…」
田中「学校について言えば戦後、収容所から戻ってきてわずか2年で日系人は学校を再開しているんですね。それも、日系人がいかに子供のことを考えていたか、同じ目にあわせたくないという気持ちがあったのかもしれませんね。こういう資料をアメリカ人に言っても分からないんですよね。日本人も知らないと思うんですよ。だからこそ伝えていくべきですね」
次回その③、座談会に続く。(敬称略)
田中雅美
日本語学園協同システム学園長。大阪出身。
八巻建志 八巻空手 代表師範
神奈川県出身、元全世界空手道選手権大会チャンピオン。
2002年渡米、八巻空手を設立。世界的な格闘技雑誌「ブラックベルト」で表紙を飾る。
現在、道場をトーランスに構える。
鈴木弘子 女子プロアメフトプレイヤー
東京都出身、2000年渡米、女子アメリカンフットボールでプロ選手第一号となる。今年度女子世界選手権で、米国代表に選ばれる。ロサンゼルス・パシフィック・ウォリアーズ所属。
マック赤坂 政治活動家、スマイルセラピー協会会長
愛知県出身、京都大学農学部卒業後、伊藤忠商事に入社。 財団法人スマイルセラピー協会会長、スマイル党総裁、レアメタル輸入販売会社マックコーポレーション社長。 これまでに東京都知事選や大阪府知事選などに出馬。
全米日系人博物館 案内人
田島喜八郎
日本生まれの新1世。福岡出身県、1968年に渡米、
全米日系人博物館では3年前からボランティアガイド。
写真・文 JUNZO ARAI, TOMOMI KANEMARU,

入館料お支払いの際に「日刊サン掲載の『JANMへ行こう!!』を読んだ」と言うと、『ワシントンへの道 ~米国日系社会の先駆者 ダニエル・イノウエ議員の軌跡 ~』と『知られざる政治家 ラルフ・カーとニッポン人』の2つの日系移民史ドキュメンタリーが入ったDVDを特別プレゼント。昨年末に亡くなった大統領継承順位第3位のイノウエ議員のインタビュー入り。非売品なので貴重なDVD!
*入館料をお支払いの上、入館された方のみ対象。
JANM・ジャニム(全米日系人博物館)
Japanese American National Museum
日系アメリカ人の歴史と体験を伝えるアメリカ初の博物館。アメリカの人種と文化の多様性に対する理解と感謝の気持ちを高めることが目的。ボランティア・ガイドに支えられ、訪問者は展示にはない興味深い話を聞くことができる。
100 N. Central Ave. Los Angeles, CA
・213-625-0414
http://www.janm.org
開館:火・水/金・土・日 11:00 ~17:00
木 12:00 ~20:00
休み:月曜
料金(企画展も含む):一般9ドル、シニア&学生&子供5ドル、メンバー無料
*木曜17:00 ~20:00、毎月第3木曜は無料
交通:メトロ電車:ゴールドライン「Little Tokyo / Art District」下車。徒歩1分
駐車場:あり。博物館前、他多数(有料)
★「ボランティア・ガイド」に関心のある方は、下記まで。
213-830-5645
2013/11/16 掲載

