ピアノの道
vol.121 幽玄
2024-01-19
女形歌舞伎役者五代目坂東玉三郎と太鼓芸能集団『鼓童』が織りなすシネマ歌舞伎特別編『幽玄』。能の代表演目を歌舞伎役者の演出・出演と鼓童の演奏で仕上げた舞台を映画で配布する斬新な企画です。
『幽玄』という単語は古くは中国の老荘思想や日本の能楽・禅・俳諧などの美的感覚にも重要で、「深淵微妙な性命的神秘性」「明確に捉えられない深い意味」「言外に漂う余情」などを意味するそうです。私にはこのシネマ歌舞伎は対するもの同士がお互いを高めあうバランスの追及に思えました。現代と古代。男性と女性。儀式と演技。感受と発動。光と影…そして日本の文化芸術伝統や歴史の奥深さを体現するこの作品を、リトル東京のアラタニシアターいっぱいに集まった様々な人種や国籍の人々と一緒に鑑賞して新年を祝えるありがたさと不思議に、まさに幽玄を感じたのです。
『幽玄』に触発されて、練習中に重要な発見をしたのです。普通音楽は「歌」と「踊り」に二分されますが、「歌」だけの歌、「踊り」だけの踊りはつまらないのじゃないか、と急に思ったのです。
鍵盤を押すとハンマーが弦を叩いて発音するピアノ。弓や息で伸ばした音に抑揚をつけられる弦楽器や管楽器と違って、打鍵の後は残響のみのピアノは言ってしまえば打楽器です。いかに歌いまわしの雰囲気を醸し出せるかが腕の見せ所になります。でも「歌」に捉えられすぎて「踊り」を忘れていた自分の最近の壁に気が付いたのです。歌は心。踊りは動き。気持ちがない行動も行動を伴わない気持ちも虚しいのと同じく、歌がない踊りも踊りがない歌も共感しにくいのです。では歌と踊り、心と動きはどのように演奏で交えればよいのでしょうか。
先週からまた演奏が忙しくなってきています。張り切ってバランスの追求の先にある共鳴と共感に挑みます。
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※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。