苦楽歳時記
vol135 石川啄木
2015-02-19
本日、二月二十日は、(明治十九年・一八八六)石川啄木の生誕日。
元来、小説を書きたかった啄木は、「夏目漱石の『虞美人草』なら一ヵ月で書ける」と朋友に豪語し、「歌なんぞは煙草と同じ効果しかない」。「君、僕は現在歌を作っているが、正直に言えば、歌なんか作らなくてもよいような人になりたい」と、同志に書き送っている。
英雄主義の天才詩人、啄木が上京したのは明治四十一年、二十三歳のときである。この折、啄木は小説家を志望しており、金田一京助に救われて短編小説を次々に書き続けたが、彼に収入をもたらしたのは、『東京毎日新聞』に発表した連載小説『島影』だけであった。
翌年(明治四十二年)に『邪宗門』を上梓した北原白秋が、詩人としての名声を高めた事実を知った啄木は、小説家になろうとして失敗した挙句に、「自分は詩人として北原との競争に敗れた」と、日記に綴っている。
精神科医の梶谷哲男は「啄木は見栄っ張りで嘘が多く、被影響性、空想癖のある典型的ヒステリー者」であると分析している。
同じく精神科医である福島 章は、「独善的、小児的、誇大妄想的ではあるが、生活無能力なヒステリー性格者とは言えない」と反論している。
石田六郎や宮城音彌にいたっては、啄木を分裂性の性格であると述べているが、いずれも恣意(しい)的な解釈となっている。
「はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり ぢつと手を見る」。若山牧水はこの歌の五句「ぢつと手を見る」には、「電気のような閃きがある」と絶賛した。
また、当時の啄木はそれほど働いてはいない。生活が困窮したのは啄木に限らず、往時の文士や知識階級に共通のものであった。借金を重ねても文士仲間を誘って啄木は遊蕩に興じていた。
漂泊の詩人、石川啄木は肺結核を患い、明治四十五年(一九一二)四月十三日に、二十六歳で夭逝(ようせつ)してしまった。妻と父と牧水に看取られている。
入相に僕はにわかに口ずさむ、「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる」。(歌集『一握の砂』)より。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。