キム・ホンソンの三味一体
vol.254 お前は確かにわたしのものだ
2026-10-18
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」、これは自分を陥れようと質問した宗教指導者たちへのイエスの答えです。その質問とは「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」でした。イエスが皇帝への納税を認めれば、神ではなく皇帝の支配を受け入れる「神に背く者」として追及できますし、逆に納税を認めなければ、「ローマ皇帝への反逆者」として訴えることができるという仕掛けでした。
イエスはローマの銀貨に刻まれた皇帝の肖像と銘を指しながら、皇帝の銀貨は人頭税として皇帝へと支払い、昔から使われているユダヤのお金は神殿への捧げ物にしなさい、と取れる返事をしました。しかし、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」には、もっと深い意味があると思うのです。創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された」とあります。つまり、皇帝の銀貨に皇帝の肖像が刻まれているように、神の被造物である人間にも神の肖像が刻まれている。だから一人一人が人生を通して神のものである自分自身を神に返していくように求められているのだ、とも取れるのです。
神を信じる者は皆、自分が神によって命を与えられ、生かされていることを信じています。命を与えるのも神であり、その命を召されるのも神であるため、命を含む私達の存在そのものが神のものであることは確かです。だから命が与えられ、それが尽きる日までの間、私たちは日々自分を神に返していこうと願うのです。それは、神の目から見て「お前は確かにわたしのものだ」と分かるような生き方をしたいという願いです。しかし現実には、富も権力も特別な能力も持たない平凡な私たちに、そんな生き方ができるのだろうかと感じてしまうのも事実です。
そんなことを考えていた、先日のことです。食料品店に買い物に行き、駐車場に車を停めて降りたら急に雨が降り出しました。当然傘もなくお店に向かって走り出したのですが、一人のお年寄りが雨に濡れながら、車のトランクに水のケースなど重そうな荷物を積んでいるのが目に入りました。走り寄って荷物をトランクに積んで差し上げると心から感謝され、雨の中ハグまでしてくれました。
イエスは「自分の十字架を負ってわたしについて来なさい」と呼びかけます。自分の十字架とは、人間として生きていく上でのあらゆる苦しみや重荷のことです。しかし、人類のために自分の命を犠牲にしたイエスについていく歩みとは、自分の十字架の上に、負いきれない誰かの重荷をも少しばかり上乗せして歩むことではないでしょうか。
雨の中のハグを通して、私たちは微力ではあっても決して無力ではないのだと実感させられました。キリストに倣って誰かのためにほんの小さな犠牲を払う私たちに、「お前は確かにわたしのものだ」と愛の眼差しを注いでくださる神の存在を知ることは、ともすれば無力感に苛まれがちな私たちの歩みにおいて、大きな慰めであり、大きな力となるのです。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

牧師、コラムニスト、元ソーシャルワーカー、日本人の奥さんと3人の子供達に励まされ頑張る父親。韓国ソウル生まれ。中学2年生の時に宣教師であった両親と共に来日。関西学院大学神学部卒業後、兵役のため帰国。その後、ケンタッキー州立大学の大学院に留学し、1999年からロサンゼルスのリトル東京サービスセンターでソーシャルワーカーとして働く。現在、性的マイノリティーをはじめすべての違いを持つ人々のための教会、CTK (Christ the King Lutheran Church)で牧会中。








