キム・ホンソンの三味一体
vol.251 表面的なもの・本質的なもの
2026-09-06
聖書の中でイエスが自分の一番弟子のペトロに「サタン(悪魔)、引き下がれ」と叱責した場面があります。もし私がペトロならば弟子を辞めたくなるようなキツイ叱責ですが、その理由はイエスが自ら十字架にかかろうとしていることをペトロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」といさめたからです。そして、イエスはそのようなペトロの発言の原因をこう診断しました。「(あなたは)神のことを思わず、人間のことを思っている。」
当時、ローマ帝国に国を奪われ植民地支配を受けていたユダヤ人達は、ローマ帝国を打ち破り、ユダヤ人の独立国家・神の国イスラエルを復活させてくださるメシアを待ち望んでいました。そしてそのような雰囲気の中で、ペトロたちは、イエスこそがそのメシアであるに違いない、と期待していたのです。ところがペトロ達の期待とは違って、イエスは、自分は必ず苦しみを受けて殺される、と弟子たちに語り始めたのです。これからエルサレムに乗り込んで、ローマの軍隊を打ち破り、ユダヤ人の国を建て直してくださると期待して、そのイエスについて行こうと考えていたペトロにしてみれば青天の霹靂だったに違いありません。もうだれもイエスについて行かなくなってしまうと思ったペトロはイエスを思ってイエスをいさめたわけです。そのようなペトロに対してイエスは、人間のことを思うのを辞めて神のことを思いなさい、といっているのです。
腐敗した宗教指導者達を罰して、罪人の烙印を押され虐げられていた人々を解放すること、そして、ローマ帝国を倒して国を取り戻すこと、これが「人間の思い」に基づいてペトロ達が考えていた救いでした。しかし、イエスは、罪人として苦しめられていた人々はもちろん、宗教指導者達、自由を奪うローマ帝国の人々、さらには全ての異邦人、つまりは、全人類を死と罪の支配から解放することこそ究極の救いであるとして、そのための受難と十字架を「神の思い」に基づいて目指していたのです。
この「人間の思い」と「神の思い」ですが、私は「表面的な事柄」と「本質的な事柄」とも言い換えることもできると思うのです。正直、私たちが人生を通して追い求めているもののほとんどが表面的なものではないでしょうか。成績、合格、成果、昇進、富、名誉。これらは全ていつか跡形もなく消えてしまう一時的なものです。自分の手で掴んだものは時間とともに砂のように流れ落ち消えてしまうのです。それに比べて本質的なものは、イエスが自ら自分の命を犠牲にしたように、手に入れるものではなく自分の意思で他者に与えるものではないでしょうか。自分のできる範囲での他者のための小さな犠牲、配慮、節制、温かい言葉、自分の内から出ていくこれらのものこそ自分の心にいつまでも残るもの、自分が誰であるかを自分に教えてくれる本質的な根拠となるものではないでしょうか。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

牧師、コラムニスト、元ソーシャルワーカー、日本人の奥さんと3人の子供達に励まされ頑張る父親。韓国ソウル生まれ。中学2年生の時に宣教師であった両親と共に来日。関西学院大学神学部卒業後、兵役のため帰国。その後、ケンタッキー州立大学の大学院に留学し、1999年からロサンゼルスのリトル東京サービスセンターでソーシャルワーカーとして働く。現在、性的マイノリティーをはじめすべての違いを持つ人々のための教会、CTK (Christ the King Lutheran Church)で牧会中。








