マイ・ワード・マイ・ヴォイス
vol.74 灰色の鳥(9)
2026-08-02
意味とは、五感を通じて感じ取る現実を、理性による「~ではない」という否定、そして現実を超える概念で捉えることで初めて成立します。例えば、目の前にいる「これ」が「猫」という意味をもつのは、現実の「これ」を、この世に存在しない「猫」という一般的な概念に当てはめるから、つまり「これ」のもつ個別性を否定するから成り立つのです。
言い換えれば、私たちが何かを「~である」と理解できるのは「~ではない」という否定があるから、ということです。ここで注意すべきなのは、この「~ではない」は、「リンゴはみかんではない」「猫は犬ではない」という種類の「~ではない」ではない、ということ。そうではなく、目の前にいるこの猫、この世にたった一匹だけ存在する、毛が白くて、〇〇社のキャットフードしか食べず、警戒心が強くて昼寝が好きで、生後2カ月で橋本さんの家からもらってきた「ルルちゃん」に対して、そうしたルルちゃん固有の特徴は彼女の本質「ではない」と否定し、他の全ての猫に当てはまる「猫」という概念でルルちゃんを覆い隠す、という意味です。そこで初めてルルちゃんは「猫」としての意味を持つのです。
では、ルルちゃんが「私は猫だということは分かったけれど、その『猫』とは一体なんだろう?」と問うたらどうでしょう。私たちは何て答えたらいいでしょうか。「猫」の本質、つまり定義とは? 目が2つ、耳が2つ、鼻が1つ、口が1つあること? それだと人間も含まれてしまいます。ニャーニャー鳴くこと? 江戸屋猫八さんも上手にニャーニャー鳴きます。全身に毛が生えていること? ウサギも生えてますし、毛のないスフィンクスは猫ではなくなってしまいます。アメリカンショートヘアの縞模様も、マンチカンの短い足も、同様に「猫」の本質とはいえません。
ここに「本質」と「特徴」の関係における複雑な問題があります。本質は、個別の特徴を超えた領域に成立するものです。目や鼻や口の数、白い毛や縞模様、ニャーという鳴き声など、個別の特徴をいくら並べても、それらをいくら組み合わせても、本質には辿り着けません。それら特徴には当てはまらない例外が必ず存在するからです。(続く)
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

哲学者。早稲田大学卒業後、サラリーマン生活を経て渡米。ニュースクール(The New School for Social Research)にて哲学博士号を取得した後、ニューヨーク市立大学(CUNY)をはじめ、ニューヨーク州・ニュージャージー州の複数の大学で哲学科非常勤講師を兼任。専門はアメリカンプラグマティズム、ジョン・デューイの哲学。現在は東京にて論文執筆、ウェブ連載、翻訳に従事。ウェブでは広く文化事象について分析を展開。








