マイ・ワード・マイ・ヴォイス
vol.73 灰色の鳥(8)
2026-07-05
私たちの日常感覚からすれば、まずAとBという別のものがそれぞれ現実にあって、その現実を正しくコピーしたアイデアとして「AはBではない」という理解が得られる、と考えるのが自然でしょう。現実が先でアイデアが後、という具合に。でも、そもそも「AとBという別のものが存在する」という現実を認識するためには、目の前にあるAをAと認識し、BをBと認識する必要があり、そしてその認識を得るためには、現実より前に「~ではない」という理性による否定の働きが存在しているのです。
目の前にあるAをAと認識する、とはどういうことでしょうか。あなたは今、目の前にいる猫を指して「これは猫である」と認識しているとします。この認識は、目の前にいる「これ」は「猫」である、つまり「これ」と「猫」をイコールでつないでいることを意味します。「これ」は、目の前にいて、白いふわふわした毛に覆われていて、目が2つ、耳が2つ、鼻が1つ、口が1つ、ヒゲを生やし、丸くなってニャーニャー鳴いている何か。それを「猫」と捉えている。「猫」とは、アメリカンショートヘア、マンチカン、アビシニアンなど異なる種類を、さらには斎藤さんの家のリビングでいつも寝ている茶色の小動物、路地裏を横切った黒い生物、サザエさんが飼っているタマをも同時に指し示すことができる概念であり、それら個別のモノたちのどれからも根本的に切り離されている抽象的なアイデアです。「これ(モノ)」が「猫(概念)」とイコールで結ばれるということは、五感を通じて受け取る「白い」「ふわふわ」「ヒゲ」「ニャーニャー」など個別のモノの感覚を、感覚を超えるもの、つまり単なる感覚「ではない」ものとして否定することに他なりません。
私たちは五感を通じて感じ取るありのままの現実を、「~ではない」という理性の働きによって否定し、それを超える概念によって捉えなければ何も理解したことにならない、ということです。すなわち、感覚を「感覚だけではないもの」と否定して、新たに捉えなおしたものが「意味」なのです。「生きる」と「死ぬ」が同じ「意味」を持つ、という命題はこれを踏まえて考える必要があります。(続く)
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

哲学者。早稲田大学卒業後、サラリーマン生活を経て渡米。ニュースクール(The New School for Social Research)にて哲学博士号を取得した後、ニューヨーク市立大学(CUNY)をはじめ、ニューヨーク州・ニュージャージー州の複数の大学で哲学科非常勤講師を兼任。専門はアメリカンプラグマティズム、ジョン・デューイの哲学。現在は東京にて論文執筆、ウェブ連載、翻訳に従事。ウェブでは広く文化事象について分析を展開。








