キム・ホンソンの三味一体
vol.249 彼らのところへお急ぎください。
2026-06-21
イエスの宣教活動の内容は、町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒したことだと聖書には書かれています。そして、12人の弟子たちを選んで同じ任務を与えて、社会の周辺に追いやられ苦しむ人々へと派遣するのですが、それらの人々を優先した動機について聖書にはこう書かれています。「(イエスは)群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9:36)
「憐れむ」ということの定義として、通常「相手の痛みに共感し、助けたいと思う気持ち」といった意味があると思いますが、新約聖書が書かれた元々の言語、ギリシャ語での「憐れむ(スプランクニゾマイ)」という言葉は、それ以上の深みがあります。この言葉が「はらわた」という意味の“スプリンクナ”から来ていることから、イエスは、内臓を揺れ動かされるほどに人々の痛みに共感したのではないかと思うのです。イエスにとって、人々が苦しむ姿は、決して他人ごとではなく、身を裂かれ、骨が削られるほどの痛みであったということです。イエスは目の前の現実の中で今にも息絶えそうに苦しんでいる人々を優先したのです。
もしこれが現代の社会において福祉制度に適用され実施されるのであればどうでしょうか。「イエス一人に優先順位を決めさせてはならない。私だってそこそこ苦しんでいるのだ。平等で公正なシステム、すなわち助けを受けられる客観的かつ明確な基準と資格を決めるべきだ。」などと大混乱に陥ることだと思います。それは、必要か不要かにかかわらず一つでも多くのものを手に入れることでしか安心できない人間の貪欲さ、そして、自己中心という人間の限界がそうさせてしまうのだと思います。しかし、頼まれてもないのに人々の痛みを自分の痛みとし、虐げられた人々に寄り添い、すべてを失うまで与えて続けて、最後には自分の命までも与えた十字架上の救い主を知る時、はじめて人は変わることができるのだと思います。そして、そのキリストに向かってこう祈ることのできる信仰が与えられるのだと思います。
「主よ、お急ぎください。私達よりも弱り果てて打ちひしがれている全ての人々のところへと、主よ、お急ぎください。戦争で親を失った子供たちのところへ、災害で家を失った人々のところへ、飢え乾き今日1日を生き延びようとしている人々のところへ、生きる価値も希望も見出させない絶望の中にいる人々へと、どうぞお急ぎください。どうぞあなたの慰めと救いの御手を今すぐ彼らに差し伸べてください。」
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

牧師、コラムニスト、元ソーシャルワーカー、日本人の奥さんと3人の子供達に励まされ頑張る父親。韓国ソウル生まれ。中学2年生の時に宣教師であった両親と共に来日。関西学院大学神学部卒業後、兵役のため帰国。その後、ケンタッキー州立大学の大学院に留学し、1999年からロサンゼルスのリトル東京サービスセンターでソーシャルワーカーとして働く。現在、性的マイノリティーをはじめすべての違いを持つ人々のための教会、CTK (Christ the King Lutheran Church)で牧会中。








