キム・ホンソンの三味一体
vol.246 良い羊飼い
2026-05-03
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」(ヨハネ10:11-13)
これはイエスが「羊飼いと羊」のたとえを通して自分自身について、さらには当時の宗教指導者達について語ったものです。このたとえの中で良い羊飼いとは語っているイエス自身、羊とは当時の人々、そして雇い人の羊飼いは宗教指導者達を指しています。
私はこの箇所を読む度に真のリーダシップについて考えさせられます。1匹1匹の羊の名前を知っていて全ての羊を心から愛している羊飼い。そして、それらの羊を守るためなら自分の命をも犠牲にできるような愛に基づくリーダーシップ。もちろんこれは救い主キリストのリーダーシップであって、人に期待できるようなことではありません。しかし、せめてここに出てくる雇い人の羊飼いにだけは似てはならないと思うのです。宗教指導者のファリサイ派は、自分たちこそ神からイスラエルの民を任された羊飼いであることを自負していました。彼らは狼が来るのを見ると恐れて逃げるような、ただ単に臆病で卑怯だっただけではありません。イエスは彼らを盗人や強盗としてもたとえているのです。「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(ヨハネ10:10) 彼らは神の掟である律法を熱心に、厳格に守ることでのみ救われると人々に教えていました。従って、生きていくために労働が禁じられていた安息日にも働かなくてはならなかった人々を断罪し「罪人」だと宣言しました。また、障がいを持つ人々、病の人々を、本人あるいは先祖の罪の結果だと結論づけたのです。そして、それらの「罪人」を神に愛されない者として社会から追放したのです。結果的に、彼らは、彼ら自身をより敬虔で正しい者にするために「罪人たち」を必要としていたのです。宗教指導者の権威を振りかざして、彼らは自分達のために「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりする」ようなことを行っていただけでした。それとは正反対に、イエスは宗教指導者達によって苦しめられている羊達を憐れんで、その羊達を救うために十字架に向かって歩みました。そのイエスのこの言葉は、心に迫るものがあります。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(ヨハネ10:16) イエスが命を犠牲にして救うのはイスラエル民族のみならず全人類であるということです。
差し迫った危険でもなく将来にあるかも知れない危険から自国の民を守るという名目で、他国の人々の命を奪い滅ぼすような指導者たちが傲然とのさばるような世の中において、イエスのリーダシップに共感する良い指導者が現れてくれることを心から祈っている今日この頃です。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

牧師、コラムニスト、元ソーシャルワーカー、日本人の奥さんと3人の子供達に励まされ頑張る父親。韓国ソウル生まれ。中学2年生の時に宣教師であった両親と共に来日。関西学院大学神学部卒業後、兵役のため帰国。その後、ケンタッキー州立大学の大学院に留学し、1999年からロサンゼルスのリトル東京サービスセンターでソーシャルワーカーとして働く。現在、性的マイノリティーをはじめすべての違いを持つ人々のための教会、CTK (Christ the King Lutheran Church)で牧会中。








