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コラム

マイ・ワード・マイ・ヴォイス
vol.70 灰色の鳥(5)

2026-04-05

森鴎外の『妄想(もうぞう)』は、千葉県の海沿いの町でひとり隠遁生活を送る老人の手記という形で書かれた小説です。この老人は鴎外自身をモデルとしていて、鴎外と同様に若い頃にベルリンに渡り、医者として研究機関に勤めた経歴を持ちます。仕事も引退し、人との交流を絶った生活を送る老人。読書をし、近所を散歩して松の木立を眺め、砂浜をぶらつき、わずかな野菜の食事で飢えを凌ぐ日々。
 
そんな彼が死について、生について、これまでの人生について様々に綴る日記のようなこの小説で注目すべきは、彼の死を恐れない姿です。でもそれは、彼が人生を達観したからではありません。それどころか、彼は若い頃のように迷い続けているのです。
 
ベルリンに医学留学するほどのエリートだった彼ですが、優秀な学生として、国家公務員として、留学生として役割を上手く演じてきただけで、常にその役割の裏に「本当の人生」が存在する気がしていた、と言います。留学時代にはハルトマンやシュティルナー、ショーペンハウアー、ニーチェにいたるまで、当時読まれていた哲学書を読み漁りますが、どの哲学者もそれなりに自分を魅了するものの、腑に落ちるということはありません。交差点に立って道行く人の顔を眺めるように、哲学者たちの説に耳を傾けた。感銘を受けた人もいた。でも交差点を離れてついていこうと思う人はいなかった。一篇の叙事詩のように自分を酔わせてくれたが、その酔いは結局覚めてしまった、と。
 
「正解」がつかめない思いを抱き続けてきた彼は、こう告白します。「日の要求に応じて能事畢る(のうじおわる:やるべきことをやったと満足する)とするには足ることを知らなくてはならない。足ることを知るということが、自分には出来ない。自分は永遠なる不平家である。どうしても自分のいない筈の所に自分がいるようである。どうしても灰色の鳥を青い鳥に見ることが出来ないのである。道に迷っているのである。」
 
これが自分の青い鳥だ、というものは何もない。あるのは灰色の鳥だけ。でも彼は淡々と「死を恐れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下っていく」と言います。どういうことでしょうか。(続く)


※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。
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葛生賢治

哲学者。早稲田大学卒業後、サラリーマン生活を経て渡米。ニュースクール(The New School for Social Research)にて哲学博士号を取得した後、ニューヨーク市立大学(CUNY)をはじめ、ニューヨーク州・ニュージャージー州の複数の大学で哲学科非常勤講師を兼任。専門はアメリカンプラグマティズム、ジョン・デューイの哲学。現在は東京にて論文執筆、ウェブ連載、翻訳に従事。ウェブでは広く文化事象について分析を展開。




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