キム・ホンソンの三味一体
vol.239 出発点
2026-01-16
新しい年がはじまりました。しかし、新しい年だからといって全ての問題が帳消しになることではありません。政治、経済、環境問題、戦争等々、依然と今までの問題を引きずりながらの2026年となります。しかし、同じ問題を抱えて進むにしても自分の視点をどこにおいて、どの方向を目指して進むかによって結果の違いが生じるのではないかと思います。
キリスト教では“洗礼”というものを信仰生活の始まりであり出発点にしています。元々はイエスと同時代の洗礼者ヨハネが始めた“罪の赦しの洗礼”から始まったものです。当時の宗教指導者らは人々に神の律法を守り抜くことによってのみ救いが与えられると教えていました。律法を破ることイコール罪をおかすことだ、と考えていたからです。と同時に罪というものは伝染することもあると考えていました。知らないうちに徴税人や娼婦のような罪人と呼ばれる人々と接触する可能性を避けようと、できるだけ不特定多数の人が集まる市場などのような場所に行くことを避けていましたし、もしどうしても行かざるを得なかった場合は、家に戻ってから体を洗って罪を清める儀式などを行っていたようです。さらには、万が一のために年に一度は必ずエルサレム神殿に巡礼し、生贄の動物を買って司祭に罪の赦しの儀式をしてもらわなければならないとされていたのです。
それで、実際に人々はその教えに従って生きていたのかと言えば、そうではありませんでした。その日暮しの圧倒的多数の人々によってそれらを守ることは不可能だったのです。一切の労働が禁じられた安息日(土曜日)にも隠れて働かなければ生きていけない人々や、罪の赦しの儀式のために生贄の動物を買うお金すらない人々が大多数だったのです。圧倒的多数の人々は、律法を守れないうえ罪の赦しの儀式も受けられない自分が救われるはずはない、と落胆と悲しみの日々を過ごしていたのです。
そこに洗礼者ヨハネが現れ、宗教指導者らをも含めて「罪を悔い改めよ。と救い主が来られる日が近い。」と罪の赦しの洗礼というものを施し始めたのです。すると、全土からおびただしい人々が藁をも掴む思いで洗礼者ヨハネのところにやってきて洗礼を受けました。そして、イエス自身もその人々に混じって彼らと共に洗礼を受けたのです。イエスは自分の救い主としてのスタートを、最も底辺にいる人々のところに自分をおき、彼らの苦しみや悲しみに共感するところから始めました。そして、自分を後回しにし、人々に与え続けた歩みの最後は、人々のために自分の命を与えた十字架の愛の出来事でした。
自国優先、自己中心、弱肉強食のルールが恥じらいもなく叫ばれるこの時代において、新しい一年のスタートを、自分の視点を底辺の人々の視点に合わすことから始めることが必要ではないでしょうか。それこそが少しであっても去年より思いやりと愛が豊かな今年にできる方法に思えてなりません。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

牧師、コラムニスト、元ソーシャルワーカー、日本人の奥さんと3人の子供達に励まされ頑張る父親。韓国ソウル生まれ。中学2年生の時に宣教師であった両親と共に来日。関西学院大学神学部卒業後、兵役のため帰国。その後、ケンタッキー州立大学の大学院に留学し、1999年からロサンゼルスのリトル東京サービスセンターでソーシャルワーカーとして働く。現在、性的マイノリティーをはじめすべての違いを持つ人々のための教会、聖霊の実ルーテル教会 (Torrance) と復活ルーテル教会日本語ミニストリー(OC, Huntington Beach)を兼牧中。








