マイ・ワード・マイ・ヴォイス
vol.65 未だ来たらず(8)
2025-11-02
私たちが唯一無二の存在であるのは、事実はどうであれ、自分の持つ特徴を常に変更できる可能性に開かれていることが根拠となります。「事実はどうであれ」とはどういうことでしょうか。ここにイニョンが関わってきます。「昨日メロンを食べた」「子供が3人いる」「〇〇の配偶者である」など、現実の特徴は事実として変更できません。それでも現実の特徴を変更できる可能性があるとすれば、それは現実そのものではなく、現実の「意味」を変更できる可能性を意味します。昨日メロンを食べたのは事実、でもメロンを食べたのはメロンが好きだからではなく、メロンが好きな彼女と同じ体験をしたいからだった。それが分かると、メロンを食べるという事実が新たな意味を持つ。子供が3人いるのは事実、でもそのうちの一人に対して兄弟のように接していたと分かると、「3人の子供」の意味が変化する。事実は常に新たな「意味」を持つ可能性に開かれているのです。
『パストライブス』のラストシーンを思い出してみましょう。ヘソンの「もしも今が前世でもあって、僕たちはすでに来世でお互いに別人だったら?僕たちはどうなっているかな?」に対して、ノラは「わからない」と答えます。「現世が実は前世で、来世が現世」であれば、自分が「前世、現世、来世」と順番に並んだ人生の真ん中にいるのではなく、それどころか前世、現世、来世を区別すること自体に意味がなくなります。現世は前世ほど違うものだったかもしれない。同時に、来世ほど違うものになるのかもしれない。それほど根本的な「意味」が後から生まれる可能性が常に存在する。
あるのは「こうだったかもしれない」「本当はこうかもしれない」「これからこうなるのかもしれない」という無数の可能性だけ。それらの可能性は全て「未だ来たらぬ」もの、つまり未来として私たちの現在に潜在的に備わっているとしたらどうでしょう。その可能性を生きることで私たちは初めて固有の、つまり本当の自分になれるのです。その意味で、ヘソンとノラは別れ際にそれぞれ本当の自分になったに違いありません。映画は悲しい結末を迎えますが、そこにある種の解放感を感じるのは私だけでしょうか。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

哲学者。早稲田大学卒業後、サラリーマン生活を経て渡米。ニュースクール(The New School for Social Research)にて哲学博士号を取得した後、ニューヨーク市立大学(CUNY)をはじめ、ニューヨーク州・ニュージャージー州の複数の大学で哲学科非常勤講師を兼任。専門はアメリカンプラグマティズム、ジョン・デューイの哲学。現在は東京にて論文執筆、ウェブ連載、翻訳に従事。ウェブでは広く文化事象について分析を展開。








