キム・ホンソンの三味一体
vol.236 万人のための追悼礼拝
2025-11-02
ルーテル教会の暦では毎年11月の第一日曜日を全聖徒主日と呼び、この日には近年お亡くなりになった方々を追悼する礼拝が行われます。そして、今年この日曜日のために決められている福音書はイエスの名説教の一つとして知られた箇所です。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」(ルカ6:20,21)
不思議な幸福観だとしか言いようがありません。一般的な幸福観とはまるで逆です。ではどうしてイエスは、貧しく、飢え、泣いている人々は幸いだと言ったのでしょうか?実は、イエスは、“今の泣いている状態”が幸いだと言っているのではなく、“将来”を見据えて「幸いである」と言っているのです。聖書は、人生をよく旅路にたとえますが、もし“今”が終着点であるならば、貧しく、飢え、泣いている状態は、幸いとは言えません。終着点はもっと先に、もっと将来にあるのです。そして、その終着点こそが天国であり、そこでは満たされ、笑えると約束されているから、幸いだと言うのです。
詩人の星野富弘さんは、高校の体育教師でしたが、授業中に器械体操の着地に失敗して首の骨を折り、首から下の体がまひして寝たきりになってしまいました。絶望のどん底で、もがき、苦しみ、やがて口に絵筆をくわえて草花の絵を描き、詩をつくるようになります。そして、聖書と出会い、やがて神さまを信じるに至ります。そんな星野富弘さんが寝たきりになって、そのベッドからの視線で書いた美しい詩があります。
「何のために生きているのだろう。
何を喜びとしたらよいのだろう。
これからどうなるのだろう。
その時、私の横に、あなたが一枝の花を置いてくれた。
力をぬいて、重みのままに咲いている、美しい花だった。」
(『鈴の鳴る道』より)
首から下が麻痺して体が動かないという状態は変えようのない現実です。不幸な状態そのものです。けれども、そういう動けない人生からも美しさを見いだしている。重みのままにありのままの自分を生きる意味を見いだしている。そしてそれは、今、目に見えている状態だけに囚われていては得ることのできないものです。それは、目には見えない天国という将来の終着点を、神の約束を信じるからこそ生まれる希望ではないでしょうか。
愛する人を失って泣いている全ての人の今の悲しみが、やがて天国での再会の喜びへと変わることができますように。
(11月2日の追悼礼拝には遺影をお持ちの上ご参加ください。どなたでも歓迎します。)
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

牧師、コラムニスト、元ソーシャルワーカー、日本人の奥さんと3人の子供達に励まされ頑張る父親。韓国ソウル生まれ。中学2年生の時に宣教師であった両親と共に来日。関西学院大学神学部卒業後、兵役のため帰国。その後、ケンタッキー州立大学の大学院に留学し、1999年からロサンゼルスのリトル東京サービスセンターでソーシャルワーカーとして働く。現在、性的マイノリティーをはじめすべての違いを持つ人々のための教会、聖霊の実ルーテル教会 (Torrance) と復活ルーテル教会日本語ミニストリー(OC, Huntington Beach)を兼牧中。








