キム・ホンソンの三味一体
vol.234 聖母マリア
2025-10-05
「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネ19:26,27)
これはイエス・キリストが十字架にかけられた際に母マリアと愛する弟子に語った言葉です。
人は“母”を見て自分が何者であるかを知ります。自分をこの世にもたらしてくれた人。かつて自分がその人の一部であり、自分と一体だった人。“母”は自分という存在を裏付けてくれる存在なのです。イエスが十字架にかけられた時、弟子達は絶望の中にいました。イエスの十字架は彼らにとってそれまでの活動の失敗であり、敗北を意味していたからです。絶望と恐れと不安の中にいた彼らに、イエスは自分の母を託すのです。
先日、家の床に掃除機をかけながらイヤホンで音楽を聞いていたら、たまたまカッチーニのアヴェ・マリアが流れました。最後に聞いたのは10年以上前のことだったと思います。それまでは何とも思ってなかった曲ですが、自分も驚くほど胸に迫るものがありました。掃除機を手に持ったままその場に立ち止まって最後まで聞きました。涙が出ました。言わば単純なメロディー。歌詞だって「アヴェ・マリア」という言葉を繰り返すのが全部です。
死から復活したイエスが弟子達に現れた後、また戻ってくるとの約束を残して昇天します。そして、その後、イエスの再臨が数日後、数ヶ月後でないことを悟った弟子達は、イエスを失った喪失感に打ちひしがれてしまうのです。その時、彼らはマリアの中にイエスを見たのでしょう。マリアはイエスの存在を裏付けてくれる存在だったのです。その後、弟子達は、喪失感から立ち直ってイエスに言われたように布教活動に励むようになるのです。その歩みの中で、迫害に遭い仲間が殉教していくような恐れや不安の中にあっても、マリアは彼らにとってイエスの痕跡であり、慰めであり、イエスの約束を思い起こさせてくれる存在だったのです。カッチーニのアヴェ・マリアには、弟子達の不安、悲しみ、切なさ、切望、情熱、待望などの複雑な感情がにじみ出ています。
「それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』」(ヨハネ19:27)
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

