キム・ホンソンの三味一体
vol.233 100分の1
2025-09-21
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(ルカ15:4)
これはイエスの「見失った羊のたとえ」と呼ばれるものです。「あなたがたも当然そう思うでしょう?」という風な言い方ですが、正直なかなか納得できないところです。常識的に考えて、強盗や獣などがいる野原に99匹の羊の群れを放置して迷い出た1匹の羊を探しに行くことは愚かなことに思えるのです。合理的に考えることを最優先にして生きている私たちにとって、迷い出た1匹の羊は、残りの99匹との数字上の関係から100分の1の値打ちしかないと考えるからです。失った1%の財産を取り戻す以上に大事なことは、99%の財産を守ることだ、というのが私たちの常識なのです。しかし、このたとえの中の羊飼いは非常識的な行動をとります。実はイエスがこのたとえの中の羊飼いでたとえているのは他でもない自分自身のことなのです。99という自分を顧みず、人々の救いのために自ら進んで十字架にかかるという自己犠牲についてです。
イエスが十字架にかけられた時、「お前が本当の救い主なら、十字架から下りて自分をまず救って見ろ、そうすれば信じてやろう」とののしられた時こそが、「まず、自分自身という99匹を救ってからものを言え」という私達の“常識”と、人類への神の愛が対決をした瞬間だったと思います。99という自分自身を犠牲にしてまで、1という“他者”を救おうとした非常識的な行動をしたイエスは死にましたが、その後復活を遂げました。死という世の常が覆され、限りある私達の命に限りない命が注がれるという救いが与えられたのです。
これはただの宗教上の教理に過ぎないと思われるかも知れません。しかし、実際のところ、私たちはこれらの99を顧みない人々によって支えられ救われているのではないでしょうか。震災の時に自分を投げ打って見ず知らずの他者を救った人々。豊かな国に生まれ何不自由なく生きていくことができるのにもかかわらず、自ら最貧国に行って人々への奉仕の生き方を選んだ人々。自分も決して満ち足りているわけでないにもかかわらず、もっと困っている人のために寄付をする人々。些細な日常の中で自分を優先しても良い場合にもかかわらず、他者にその優先権を譲る人々。私たちが意識できようができまいが、間接的に、または直接的に、人生のどこかで私たちはこのような人々によって助けられ、守られ、支えられ、救われているのではないでしょうか。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

