マイ・ワード・マイ・ヴォイス
vol.63 未だ来たらず(6)
2025-09-07
ノラとヘソンの関係に限らず、私たちの人間関係はどんなに確定的で再定義が不可能に見えるものであっても、その意味を遡及的に再定義される。人間関係とはそのような因縁(イニョン)の別名である、と言えるのは何故でしょうか。絶対的に一つの意味しか持たない私たちの「わたし」自体、つまり自分は自分であって他の誰でもないという意味の「自分」が、常に多様に再定義される「未来」を含んでいるのが私たちの本質だからです。
一つの意味しか持たない「わたし」が多様な意味を持つ可能性は、固有名詞から理解できます。今この記事を読んでいる皆さんはそれぞれ自分が唯一無二の存在であると思っているでしょう。もちろん正しい理解です。では、皆さんが「わたし」と呼んでいるものが唯一無二であるとは、何故言えるのでしょうか。「そんなの簡単じゃないか。自分は自分だ、という強い意識があるから」と返ってきそうです。でも、私たちは夢の中で「自分は自分だ」と意識しながら、いとも簡単に違う人間になっています。夢の中でテイラー・スウィフトと舞台の上で踊っていたと思ったら代々木公園でバターとマーガリンの違いについてアルパカの集団に説明していた「わたし」は本当のあなたではなく、今この記事を読んでいる「わたし」が本当のあなたである、とどうやって証明できるでしょうか。
あなたの外見や持ち物、家族、仕事、性格などが、これまで「わたし」のものだと思っていたものと同じだからです。つまり「わたし」が唯一無二であること、同一性(アイデンティティ)は、「わたし」の持つ特徴(外見、持ち物、家族など)が同一であることで成立します。その「わたし」を示す言葉が固有名詞です。「わたし」の固有名詞が「山田太郎」の場合、「わたし」が他の山田太郎さんではなく「この山田太郎」であるのは、その特徴が他の山田太郎さんたちの特徴と区別できるからです。猫山犬美さんと結婚し、三重県松阪市でラザニア専門店を経営し、身長が178センチで童顔で揚げ出し豆腐が大好物の山田太郎さんは一人だけ、というように。そうすると、固有名詞とはそうした特徴の集合体である、と言えそうですが、問題があります。(続く)
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

