キム・ホンソンの三味一体
vol.228 もう一つの平和
2025-05-30
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:27)
これは逮捕され十字架にかかる前の夜、イエスが弟子達に残した遺言ともいえる言葉の一部です。それにしても、これから捕えられ屈辱にさらされ苦痛を極める死に方をする人が、他人にどのような平和を与えるというのだろうか、と疑問が残ります。実は、ここでイエスがいう「わたしの平和」というのは、私たちが知っている平和とは異なるものです。
個人的なレベルで平和というと悩み事や心配事が何もなくすべてが順調な状態のことです。しかし、人生の中でそんな時が長く続くことは滅多にありません。あれこれと何かとトラブルが起きたり、物が壊れたり、事故に遭ったり、病気になったりとするのが世の常です。その度、私たちは問題に取りかかり、その問題を解決できたならば少しばかりの間、心が平和になるのですが、また間もなく次から次へとやってくる諸々の問題によって一喜一憂の日々を生きているのです。あくまで人生は、幸福と不幸、喜びと苦しみ、善と悪、健康と病いのパッケージであって、欲しいものだけを単品で買うことなど決して出来ないのです。
しかし、イエスが与えると約束した平和は、この世の荒波に飲み込まれそうな恐れと不安の中にあってかえって心を落ち着かせる平和です。十字架の死とその後の復活を通して、イエスは死が終わりではないことを弟子達に知らせました。そして、そのことを信じて受け入れるすべての人にとっても死が終わりでなく、死のその先にある命を約束したのです。これは「死の支配」からの解放を意味します。無意識のレベルにおいて、私たちの全ての心配や恐れの底辺には「死への恐怖」があるのではないでしょうか。最悪の最悪は、失明でもなければ、足の切断でもない「死」に他なりません。
この世の困難や災い、病いや事故などによって揺さぶられるようなことになった時、私はその度、死が終わりではないこと、だから死を恐れる必要がないことを思い起すことにしています。
困難や災い、事故や事件の真っただ中にあっても、それらの勢いが増すばかりの状況においてさえも、死の支配から解放された者の心はイエスの平和で満たされます。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

