マイ・ワード・マイ・ヴォイス
vol.59 未だ来たらず(2)
2025-05-02
ハーレイやジョーカーの信奉者たちが、悪の救世主・ジョーカーの再臨を期待する物語に見られる未来観とはどのようなものでしょうか。彼らが待ちわびるジョーカーとは、荒廃したゴッサム・シティを浄化、もしくは破壊してくれる存在です。つまり、彼らが期待するのは、世界を一度リセットして新たな世界が到来する未来だと言えます。
ここで問題なのは、現在の世界をリセットしたものを「未来」と捉えるがゆえに、誤った未来像を描いてしまうことです。「リセット」された後の全く新しい世界は、そもそも想像することができません。想像できるとすれば、その世界はリセットではなく、現状をアップデートしただけのものです。想像とはこれまでに経験したこと、存在したものに変化を加え、アレンジし、イメージを膨らますことです。ユニコーンという想像上の動物は「馬」と「角」を組み合わせたもの。河童は「カエルの緑色」「皿」「亀の甲羅」などを組み合わせたもの。映画『エイリアン』に登場する怪物はH.G.ギーガーが人間の性器をモチーフにデザインしたものです。あらゆる想像の産物は何かしらの「元ネタ」をアレンジしたものであり、私たちは経験や知識や記憶をリセットして何かを想像することはできません。
(以下『~フォリ・ア・ドゥ』のネタバレあり)つまり、破壊王による世界のリセット後に到来する「未来」は、私たちの手元にあるものを少なからず投影しているに過ぎず、さらには、その投影を「未だ来たらざるもの」と取り違えてしまうことが問題なのです。この取り違えによる悲劇がアーサー自身にも起こります。貧困と孤独にあえぐ惨めな青年アーサーにジョーカーが宿ると信じる人々は、道端に転がっている石を拾って「これは神が宿る聖なる石だ」と思い込むのと同じことをしています。だからこそ、映画の最後では、アーサーが道端の石でしかないと分かったジョーカーの信奉者がアーサーを刺殺します。息絶えていくアーサーの背後で、刺した男は自らの両頬をナイフで切り裂き、ジョーカーのトレードマークである狂気の笑顔を宿します。ジョーカーとは「ジョーカーの到来を望む」人間の欲望の投影でしかなかったのです。(続く)
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

