キム・ホンソンの三味一体
vol.225 私を思い出してください
2025-04-18
もうすぐイースター(復活祭)を迎えます。イースターは、イエスが十字架にかけられ死んだのち三日目に復活したことを祝う祭日です。時々、キリストの復活を信じない人々に復活について納得のいく説明など自分にできるだろうか、と思うことがあります。一番簡単で無難な説明の仕方として、ある人が実際に亡くなったとしても、その人のことが思い出として心に残っている状態というのがあると思います。実際、聖書の中でイエスの隣で同じく十字架にかけられた一人の死刑囚が、イエスに向かって「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願ったことが書かれています。彼は本物の犯罪者でしたから、死を前にしてふと我に返ったのではないでしょうか。自分が犯した犯罪の重さ、周りの人々を傷つけ迷惑ばかりをかけてきたことへの後悔。こんな自分を思い出してくれる人など一人もなく、自分という存在はこれで完全に消滅していくに違いない、と彼は思ったのではないでしょうか。そこで彼はイエスに向かってせめて自分のことを思い出してください、と願ったに違いありません。死んだ後も消滅しないで人々の心の中で思い出されること。これはシンプルで無難な説明ですけれども、同時に非常に消極的で受動的な復活の定義です。
キリスト教の復活信仰を、ある人はこう表現しました。“それはまるでヒバリの卵に耳を当ててヒバリのさえずりを聞いて喜ぶようなこと。” 現実にその人が手にしているヒバリの卵からヒバリのさえずりが聞こえるわけはありません。しかし、その人はその卵が孵化し生まれてくヒバリが、やがてきれいな声でさえずることを知っているのです。まだ起こっていない命の出来事を先取りし、現にその命を手にしているのです。先ほどイエスに自分を思い出してください、と願った死刑囚ですが、実はイエスは彼の願いにこう答えています。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」あなたが死んだ後、天国に迎えてあげよう、ではないのです。今日私と一緒に天国にいる、と現在形になっています。この約束の言葉を聞いた死刑囚もまた同じだったのではないでしょうか。涙を流しながら喜んだに違いありません。死刑台の上で彼はすでに楽園にいたのです。ヒバリの卵からヒバリのさえずりを聞いている人と同じように、彼は復活の命を先取りし、現にその命を生きているのです。これこそが積極的で能動的な本来の復活信仰です。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

