キム・ホンソンの三味一体
vol.191 大切にすることから
2023-06-16
先日、熊本の姉妹教会から森田哲史牧師が私たちの教会を訪問してくださいました。そのおかげで私は日曜礼拝の説教を森田先生にお願いし、久しぶりに信者の立場から学ぶことができました。その中で興味深かったのは、初めて聖書が日本語に訳される際にキリスト教の核心の一つとも言える「愛」という言葉をどう訳すれば良いか、という悩みがあったそうです。というのは当時の「愛」という言葉には「性愛」以外のコンセプトはなく、そのまま「愛」と訳すれば誤訳になってしまうからです。そこで「愛する」ではなく、「大切にする」に訳したそうです。そして、実際にそのようにしてみると、何だか「愛す」の時よりハードルが下がって、誰でもトライできそうな感じがするような気がします。「わたしがあなたがたを大切にしたように、互いに大切にし合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ15:12)
また、森田先生は、誰もが多少なりとも悩みや苦しみを抱えて生きているこの世界において、苦しんでいる人がいたらお節介に思われようとも助けの手を差し伸べるという行動が私たちには必要だ。そうすれば、相手も優しさで応えてくれる。こうした些細なやり取りが、案外、人生を支える希望になるのだ、とも言われました。他者のために自分の命を犠牲にするキリストの愛を実行することは私たちには不可能かもしれません。しかし、大切にすることはできると思うのです。相手を大切にする行動と言葉が、今度は自分への優しさと思いやりの言葉として返ってきてそれらが少しずつ愛へと成長するのではないでしょうか。
日曜礼拝の後、森田先生を我が家に招待しました。夕食のテーブルに着くまでしばらくの間でしたけれども、森田先生はうちの子どもたちと一緒にゲームをして遊んだり、アニメの話に付き合ってくださったりとそれこそ子どもたちに対して優しく大切に接してくださいました。やがて楽しい食事も終わり森田先生を滞在先にお送りするために車を出そうとすると、誰かに言われたわけでもないのに、我が家の子どもたちが森田先生をお見送りするために家の前に整列したのです。そして、「森田先生、さよなら」、と今日初めてお会いしたにもかかわらずみんな慕う気持ちを込めて手を振っていました。きっと森田先生の相手を大切にする気持ちが子どもたちへと伝わり、子どもたちも同じ気持ちで森田先生へと応えたのだと思います。
互いを大切にようとする私達のこの小さなやり取りは、日本とアメリカという物理的な距離とは関係なく育まれていって、いつか一人で苦しみに耐えつつ生きている全ての人の友となれる原動力となって私たちを強めてくれるものと思います。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

