マイ・ワード・マイ・ヴォイス
vol.35 見極め (3)
2023-05-05
学校での勉強こそ、生きることの価値を見極めるための世界観を得る最良のチャンスだと私は考えます。では「世界観」とは何でしょう?「あの作家の世界観が好き」「彼とは世界観が合わない」「留学して世界観が変わった」など、ものごとの理解、価値観、人生観といった意味で使われます。私はこう定義します。世界観とは「世界が私に差し出してくる意味の集まり」である、と。
私たちは世界の中にいますが、真空にボールがぽつんと浮かぶように周りから何の影響も受けずに存在するわけではありません。15分後に始まる会議の資料を完成させようと冷や汗をかいたり、卵や鶏肉の値上がりに困りながら食費をやりくりしたり、想いを寄せる彼女が見せた表情に一気一憂したり、不倫が発覚した芸能人の悪口をSNSに書き込んだり。世界から一歩下がり、すべて対してニュートラルな距離をとり、スクリーンに映し出される映像のように世界をのんびり眺める瞬間なんてありません。世界は常に「これはこうなっている」「こうすべきだ」「こうしない方がいい」と私たちを突き動かし、私たちは休む間も無く世界に反応し、働きかけています。そうしたダイナミックなやりとりの中で私たちを突き動かすそれぞれの作用を理解したものが「意味」。それらをまとめたものが「世界観」ではないでしょうか。
差し出される「意味」は、私たちが単に行動を繰り返すだけでは捉えきれません。目の前にマグカップがある。コーヒーを入れて飲む。空になった。叩いてみる。音がする。陶器で出来ているようだ。色は白。何の変哲もないマグカップ。そこへある人が来て、「これはアンディ・ウォーホルがバスキアからもらったマグカップなんだよ」と言う。いま自分がやったことすべてが違った「意味」を持ってこないでしょうか。マグカップ自体が全く別のものにならないでしょうか。
資料を会議に間に合わせようと焦ることの「意味」、卵や鶏肉の値上がりに対処することの「意味」、彼女の表情に感情が揺さぶられることの「意味」、SNSに悪口を書き込むことの「意味」。理解するには行動とは別の次元の知識と考察が必要です。それを得る機会が勉強だとしたらどうでしょう。(続く)
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

