キム・ホンソンの三味一体
vol.188 あなたがたをわたしのもとに迎える。
2023-05-05
「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14:2-3)
これはイエスが逮捕されて十字架につけられる直前、弟子達との最後の晩餐の時、弟子達に話したイエスの言葉です。このことをイエスが話していた時、そこにはただならぬ空気が流れていたに違いありません。食事の席で、イエスは裏切り者の予告をし、そして、この話の直前のところで、イエスは、「わたしが行く所にあなたがたは来ることができない」と弟子達を突き放し、命を捨ててもついて行きます、と言うペトロに、あなたはわたしを知らないと言うだろう、と予言してしまうのです。そのような、ただならぬ言葉のやり取り、異常な空気の中で、弟子達は心を騒がせていたに違いありません。それは、弟子達にとって、見知らぬ世界に放り出され、右も左も分からず、知らない道で迷っているような不安と動揺でした。イエスは、そのような弟子達の気持ちを察して「今も、後も、私はあなたがたを一人にしない。あなたがたと共に歩み、終わりの日には、あなたがたを私のいるところに迎え入れる。」という約束でもって弟子達を慰め、励まそうとしていたのです。その「イエスがいるところ」とは、つまり天国のことです。
人はこの世に生まれて自分の死を迎えるまでに、必ず他者の死を経験します。そして、その他者の死を通して死について考え、死とは何かとの問いに答えなければならない時があるのです。「パパも死ぬの?」と子供に問いかけられる時がそうです。その時、死はすべての終わりではなく、死のその先に私たちが迎え入れられるところがある、という答えを持っていることは、問いかけた子供以上に答える父にとって大きな慰めです。
確かに私達の人生は不安な事だらけです。これだけは絶対に大丈夫だと考えていたものが、実はそうでもないってことを、私達はコロナ禍を通して学んだのではないでしょうか。若さも、健康も、お金も、名声も、命も何もかもいつ消えてなくなってもおかしくない脆いものです。しかし、そのような不確かな人生の歩みの中にあっても、死のその先に私たちが迎え入れられるところがある、と信じる者の心には希望と喜びがあります。
礼拝:日曜日午前10時(ハンティントンビーチ)、日曜日午後2時(トーランス)
お問い合わせ:khs1126@gmail.com (310) 339-9635
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

