マイ・ワード・マイ・ヴォイス
vol.34 見極め(2)
2023-03-31
なぜ学校で勉強するのか?人生に生きる価値があるのかどうか、それを見極めるための道具を手に入れるためだと思います。カミュは著書『シーシュポスの神話』でこう言います。
「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるとか、精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ」(清水徹訳、新潮文庫版)
それまでは食事や睡眠を繰り返し、言われるままに学校に通い、友達と遊び、自分が生きている事実を振り返ることもなく、いわば「生かされていた」生活。それが終わり、「なぜ私は今ここにいるのか?私とは何か?私はどこへ向かうのか?」を考え始める。もはやビリアードの玉が他の玉に弾かれて転がるような生き方ではなく、生きることの価値を見極めたいと思う。見極めないことには本当の意味で前に進むことができない。生きるか死ぬかの問い、まさに死活問題。
もちろん、多くの人にとってこれは青臭くて意味のない問いかもしれません。「そんな答えの出ないことを考える暇があったら自分のやりたいこと、夢、目標を見つけたら?」「そんなこと言ってないで受験頑張りなさい」「病むだけだよ。恋人でも作りなよ」そんな声に押され、この問いをうやむやにして前に進む。就職して結婚し、子供を育て、人生の晩年を迎える。前に進むことを正解として進んできた結果、果たしてこの問いは解消できたでしょうか?
前に進むことを正解とする「前進派」の人は反論するでしょう。「それでも、前進することに価値がある。その問いの答えは前進する中で、経験で掴むものだから」と。果たしてそうでしょうか?そもそも「生きることの価値」を見極めずに、ある経験に「価値がある」とどうやって理解できるのでしょうか。
さらに反論する人もいるでしょう。「だとしたら、学校の勉強なんてなおさら役に立たないでしょう?」と。いえ、それは間違いです。勉強こそ、生きることの価値を見極めるための「世界観」を得る最良の機会なのですから。(続く)
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

