キム・ホンソンの三味一体
vol.187 私もその一人でした。
2023-03-31
教会暦では今度の日曜日からイースターまでの一週間を受難週と呼び、最後の晩餐の後、イエスがユダヤ人達に捕らえられ十字架にかけられたことを覚え、共に悲しみに与かる時です。なぜキリスト教徒達は2000年も前の出来事を未だに悲しむのかと言えば、それはイエスが自分に代わって罪の罰を受けてくれたと信じているからです。だから自分に罪があるにも関わらず赦されたことに感謝すると同時に、イエスが復活したイースターを大いに喜び祝うわけです。
当時、イエスをローマ政権の転覆を図っているとして総督のところに引き渡したのは、イエスによって権力の座から下ろされるかもしれないと恐れていた宗教指導者達でした。そして、何の罪も見当たらないと釈放しようとした総督を、反乱を起こすかのような勢いで圧迫し死刑判決を出させたのは群衆でした。彼らはイエスが反乱を起こして自分達の国を再建する気がないと見て失望し怒ったのです。そして、これ以上騒ぎを大きくして本国へと報告されては困ると考えた総督ピラとは、いよいよイエスに死刑の判決を言い渡したのです。その時の様子について聖書にはこう書かれています。
“ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」25民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」”(マタイ27:24−25)
ところがその後一部のキリスト教徒達はこの最後の群衆の言葉を、ユダヤ人憎悪を正当化する口実にし、反ユダヤ主義の根拠の一部だとしたのです。皮肉なことに、全人類の罪を贖罪するために自分を犠牲にしたイエスの意に反して、一部のキリスト教徒達はもう一つの罪を犯したのです。キリスト殺しの共犯は、イエスを総督に引き渡した宗教指導者、死刑判決を下した総督ピラト、そして、ピラトを圧迫した群衆だけではありません。私たちもその一人として数えられているのです。それは彼ら同様、自分の立場さえ、自分の利益さえ、自分の権力さえ、自分さえ守られるのであればそれでよしとする私たちの自己中心な思い、それらの罪の贖罪のためにイエスは十字架を選んだからです。
自分は何も悪くなくて相手だけが非難され報いを受けて当然だとする考えが蔓延する世の中にあって、イエスの贖罪の十字架の意味を思い起こさざるを得ない今日この頃です。
礼拝:日曜日午前10時(ハンティントンビーチ)、日曜日午後2時(トーランス)
お問い合わせ:khs1126@gmail.com (310) 339-9635
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

