受喜与幸 ~受ける喜び、与える幸せ~
vol.73 どんなときも光を見いだせるのが本当の希望1
2023-03-24
病院という場所は生と死がもっとも近距離で接しあっている、したがって、絶望と希望がときにはあわただしく、ときにはゆっくりと交錯する場所でもあります。しかし、希望は必ず生や健康の側だけにあって、死や病気の側には絶望しかないといえば、そうともいいきれません。
以前のコラムでも述べてきたように、末期がんなどの治る見込みの薄い病気に侵され、死の淵(ふち)に臨みながらも、胸中にはたしかな希望の光をともして、残された短い時間を懸命に生きようとする人がいます。
そのような患者さんにとっての希望は、もはや「治る」とか「生きる」という点にはありません。生や治癒への可能性はほとんど絶たれたがゆえの死の病であるからです。
では、そんな彼らの希望はどこにあるのか。何に由来するのか。それは限られた時間を生きる意味と価値から生まれてくるのです。
たとえ余命が一か月であったとしても、その一か月は生きるに値する時間であるという実感を当人がもてれば、それは彼にとって「生きる希望」になりえます。
たとえば死後に臓器提供や献体を申し出る患者さんは、移植を待つ人の治療や医学の研究に自分の体を役立てることによって自分の生に、あるいは自分の死に意味や価値を見いだそうとしているのではないでしょうか。
病の床に伏し、刻々と死に向かっているこの生もけっして無意味ではなく、何らかの目的をもち、いくばくかの有益性に供することができる。それが確信できるとき、いま生を閉じようとしている人の胸にも希望の明かりがさすはずです。
逆にいえば、自分の生にどんな意味も見いだせないとき―病気であろうがなかろうが―その生は苦痛と絶望に満ちたものになるはずです。
(次回に続く)
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

