受喜与幸 ~受ける喜び、与える幸せ~
vol.69 生命を動かしているもの
2023-02-24
聖書には、次のような一節があります。
「主なる神は、土の塵(ちり)で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2章7節)
この一節に出てくる「命の息」って何だろう。私は小さいころからそれが気になっていました。
私たちの生命をつくりあげている成分は、水やタンパク質、脂肪などですが、それらの必要なすべての成分を全部集めて、バーテンダーがカクテルをつくるようにシェイクしてみても、そこにできるのはそれらのミックスジュースにすぎません。
さらに、材料、部品だけを完璧(かんぺき)にそろえて組み立てたとしても、きわめて精密な人体模型のようなものはできあがりますが、それが命として生きはじめることはけっしてないのです。
では、生命を生命として作動させるものは何か。それが聖書にある「命の息」なのではないかと私は思っているのです。
私たちの誕生の瞬間には、神様が一人ひとりに命の息を吹き込まれているのかもしれません。だとしたら、私たちは偶然の産物ではなく、あるべき存在として神様に選ばれて生まれてきたのだといえないでしょうか。
生命を動かしている命の息の存在を、医学的に証明することができたらどんなにすばらしいか。私が医師を続けている根底にはそんな思いもあるかもしれません。
一方で死とは、その命の息が抜かれた状態です。臨終を迎えた人間の体に対面すると、細胞はまだあちこちで生きている(使える状態である)のに、生命はもうあきらかに失われているという実感を覚えることがあります。
つまり、メカニズム自体はまだ稼働可能な状態なのに、それを動かす何かが失われた状態です。
私たち医師は蘇生(そせい)ということをしますが、蘇生治療をほどこしたときに、生の側に帰ってくる患者さんと帰ってこない患者さんを分けるのも、この実体はないけれど、命の息と呼ばれるものが残っているか否かであるように思われます。
命の息が吹き込まれると生が始まり、それが失われると生は途絶える。そして、その息は大いなるものの専有物である。だから私は、どんなに科学が進歩しても、人間が生命をゼロからつくり出すことはできないと考えています。
もし、命の息というものを物理的に測量することが本当にできたとしたら、息ですからきっと、他のパーツや材料に比べれば、生命全体に占める比率や重量は〇・一パーセント以下のきわめて小さく軽いものでしょう。でも、それは命にとってきわめて重要であり、不可欠なのです。
人間の遺伝子構造は、九九・九パーセントまでほとんど同じといわれています。個々の違いは、残り〇・一パーセントの部分に現れる。つまり、私が私であり、あなたがあなたである証しはその〇・一パーセントに集約されているのです。
その〇・一パーセントに命の息の正体があるのかもしれない、そんなふうに私は想像しています。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

