受喜与幸 ~受ける喜び、与える幸せ~
vol.64 大きな存在とつながる生き方2
2023-01-20
私たちは守られているという確信が心のどこかにあり、無意識のうちに自分の運命をまかせ、ゆだねて、安心を得ています。
逆に、守られていることに確信をもてない人はまかせることもできなくて、何でもかんでも自分でやろうとしますが、その自力偏重や過信があまりいい結果につながらないことは以前に述べました。
そう考えてくると、希望を心に生み出し、安らぎや幸せで心を満たすかどうかの分かれ目は、大きな存在に守られていることを信じられるか、そうでないかにかかってくるともいえます。
天はまさに人間をいつも守ってくれています。人間が幸福になることをつねに望んでおり、それが可能であるように多くのものを人間に与えてくれているのです。
これもくり返しになりますが、生命をただ機械的に継続させるためだけだったら、人間に「おいしい」「まずい」といった味覚は必要なかったはずです。しかしなぜか、私たちの舌には微妙な味わいを楽しめる複雑な味覚が備わっています。
それは食べる楽しみや喜びを感じることで、人間が幸福感を覚えるようにつくられているからです。もし天が人間をつくったのなら、その大いなる存在は人間が幸福を感じられるように味覚というものを与えたのです。つまり、天は人間を守ろうとしている。
あるいは、赤血球は全身のすみずみまで酸素を運ぶために極細の毛細血管の中まで入っていけるよう、きわめてやわらかく変形可能につくられています。そのために、あらゆる細胞の中で赤血球細胞にだけ唯一、核がありません。核は赤血球がやわらかさを保つためにみずから細胞の外へ出ていくのです。
こんな精妙としかいいようのない命の仕組みも、人間という生命が健康に生きていけるように大いなるものがデザインしてくれた結果です。やはり、人間は守られている存在なのです。
さらに私たちは、病気の苦しみの中からさえ生きる意味や価値を、ときには希望や喜びさえ見いだせる奇跡的な心の力を潜在させています。それもまた天から授けられた力で、大いなるものがわれわれを守っている加護の証しとはいえないでしょうか。
そのように私たちは、少し鋭敏なアンテナさえあれば、どこを見ても、何に触れても、命は守られていることのさまざまな例証を知ることができるはずです。
だから、まず、守られていることを自覚すること。次には自覚するだけでなく、守護の主体である大いなるもの、すなわち、天と「つながる」生き方を心がける必要があると思うのです。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

