受喜与幸 ~受ける喜び、与える幸せ~
vol.62 希望はピンチの顔をしてやってくる2
2023-01-06
前回の続きです。鎌形赤血球症の新薬プロジェクトを進める中で、あるトラブルに見舞われ、大きな危機に瀕(ひん)した経験をお話しておりました。
しかし、問題が解決してみると、あのトラブルもピンチも、それを乗り越えて成功への門をくぐるための必須(ひっす)の試練だったと思えてきます。その試練があったからこそ、いま試練以前よりも「いい状態」が得られている。そのことが実感として理解できるのです。
「禍福はあざなえる縄のごとし」。それは人生の機微をうがつ真実だと思います。一見、わざわいと見えるものに福の種が隠れ、成功と思える事態の中に、失敗への契機が潜んでいる。
だから、あるひとつの出来事が希望的な意味をもつのか、それとも絶望的な意味をもつのか……それを決めるのはひとえに、その出来事を受け止める人の心のありようしだいなのです。
こうも言い換えられます。この世に生起するあらゆることには、ニュートラルの意味しか付加されていない。したがって、自分に起きたことを自分の心が希望的にとらえれば、それは希望になるし、絶望的にとらえれば絶望になる、と。
英語に「blessing in disguise」という言葉があります。直訳すると「変装した祝福」。つまり、トラブルやピンチのように一見すると祝福とは思えないものの中にこそ、成功や成長、喜びや幸福の種が隠れている、そんな「隠された祝福」のことをいいます。
病気もまた、ときに、この隠された祝福のひとつであるのかもしれません。病気になったことがかえって真の希望を知るきっかけになることがあるからです。
失敗や不幸や苦しみ、そんな、できれば経験したくない負の事柄もすべて、希望が変装したものかもしれません。チャンスはたいていピンチの顔をしてやってくるものだし、困難が降りかかったら、それは祝福の前触れかもしれないからです。
だから、心の持ち方ひとつで、この世には希望しかありえないと考えることも可能なら、絶望だらけだと考えることも可能です。幸運が人間を堕落させることもあれば、不運が人を磨くことも、まったくめずらしいことではありません。
やはり英語で偉人の伝記などを読んでいると、書の前半のほうにたいてい、「wilderness years」という章が設けられています。「荒野のとき」、すなわち、その人の苦難の時期のことです。
どんな偉人、英雄、成功者にも荒野の時代があります。というより、その苦難の時期こそがその人を鍛え、磨いて、彼を成功に導き、偉人にするのです。凡人である私たちもそれは同じです。
大いなる力に頼っているかぎり、困難や苦しみは、必ず私たちを育成し、成長させる種となります。だから、マイナス要因も一個のチャンスとしてとらえる強くて、やわらかい心の備えを怠らないことが肝要です。その強靭(きょうじん)で柔軟な心からは、枯れない泉のように、いつも希望が生まれ出てくるはずです。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

