受喜与幸 ~受ける喜び、与える幸せ~
vol.60 生命にも「正しい」使い方がある2
2022-12-16
かつて、末期がんを患う患者さんから、「私はこのまま、こうして苦しみながら死んでいくのがふさわしい人間です。だから治療は受けません」と治療を拒絶されたことがあります。
事情を聞くと、その人はそれまで家庭をまったく顧みないで、奥さん以外の女性ともたくさんつきあったあげく、とうとう妻と子どもを捨てて新しい女性といっしょになったのに、その女性ともやがて別れてしまい……といったぐあいに、自分勝手な奔放な人生を送ってきたようでした。
病気はその好き勝手な人生への懲罰であり、だから、罪ほろぼしのためにも治療は受けずに死んでいく。これが、その患者さんの理屈でした。いさぎよいといえばそうかもしれませんが、そのように考える残りの生の価値は乏しいし、希望を抱く余地もありません。
死までの時間も神様から預けられた大切な時間です。この患者さんにもその時間を希望をもって生ききってほしいと感じた私は、次のような意味のことを婉曲(えんきょく)な言い方で告げました。
「あなたはがんに身をゆだねることを望んでいます。でも、それは病気に屈服することであって、そのことはけっして、あなたのこれまでの半生の罪ほろぼしにはならないと思います。一滴の汚点もない人間なんてこの世にはいないのですから、病気でその汚点を消すという考えも、間違っているように私には思えます。『死んで詫(わ)びる』のは実は虫のいい話で、本当の罪ほろぼしは、生きてすべきものではないでしょうか」
その患者さんは、この言葉に表立っては何の反応も示さないまま、やがて亡くなりました。ですから、私の言葉がどれほど心に残ったのかは知るよしもありません。自分の言ったことが妥当であったのかも私には判断がつかないところがあります。むしろ、死にゆく人に向けた言葉としては、むごいものであったかもしれません。
しかし、一個の命の死はそれまでの生と簡単に交換できるほど、軽いものではないことも確かですし、眼前の死の恐怖、死の苦しみからいくら逃避を試みても逃げ切れるものではありません。
であれば、どんなにつらくても、その死までの短い生を心の真ん中で引き受けるほかないのです。その〝究極の選択〟を自分の心と体を使って正面から引き受けるとき、生きる意味と価値がおぼろげながらも見えはじめ、希望の芽が心に生まれてくるのではないでしょうか。
そして私は、私が有する医学の知識、技量のありったけを、その希望の芽生えの手助けに費やしたいといつも考えているのです。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

