キム・ホンソンの三味一体
vol.182 慰められるということ
2022-12-02
イエスが十字架にかけられた時、二人の死刑囚がイエスを挟むようにして十字架にかけられていたと言われています。イエスの十字架のすぐ下では、兵士たちがイエスからはぎ取った服をくじで分け合い、見物人達は興味津々に見物をし、イエスを訴えた議員たちは「お前は神からのメシア、神に選ばれた者ではなかったのか。お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」と嘲った、と記録されています。そして、それらを見たイエスは、「父(神)よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈ったとあります。
ところがイエスの左右にいた二人の死刑囚は、これらの光景をイエスと同じ目の高さで見ていたのです。しかも興味深い事に、同じことを目撃した二人ですが、その反応がまるで違うのです。一人目は、ユダヤ人の議員たちの言葉を内面化して「お前は救い主ではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」とイエスをののしります。しかし、もう一人の死刑囚は「お前は神をも恐れないのか。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 とたしなめました。
同じことを経験しても受け取る人によって全く違うこととして認識されることは多々あります。二人目の死刑囚が自分自身と向き合うことができたのは、イエスの祈りが彼の中で響いたからではないだろうか、と私は思うのです。罪のない神の子が、自分を十字架につけた罪人達を赦してほしい、と祈っているのを聞いて、彼は生まれて初めて聖なるものに触れたのではないでしょうか。その事によって彼は、それまで否定していた自分の罪に気づいたのです。自分の罪を思う時、赦してほしいとはとても言えない。ただあなたが御国に帰られた時に、せめて私のことを思い出してください、と頼んだのです。それに対してイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」と宣言してくれました。彼はこの言葉によってどれほど慰められたでしょうか。その言葉通り、彼は自分の死刑が執行されているその時に、すでにイエスと共に楽園にいたのではないでしょうか。
愛する人を亡くして、人生で大切なものを失って、自分のわずかな余命を見つめながら、あの人を、あの子を、彼を、彼女を、私を思い出してください、と祈る祈りに対して「すでに私と一緒に楽園にいるのだ」と約束する神を知ることは、如何に慰められることでしょうか。
礼拝:日曜日午前10時(ハンティントンビーチ)、日曜日午後2時(トーランス)
お問い合わせ:khs1126@gmail.com (310) 339-9635
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

