マイ・ワード・マイ・ヴォイス
vol.30 結局
2022-12-02
「あなたにとってサッカーとは?」「この映画の見どころを一言でいうと?」「会社経営で最も重要なことは?」「今年を表すキーワードは?」私たちは連日、多面的で複雑な物事を一言でまとめようとする言葉を耳にします。結局のところ、これはどういうこと?「これ」はサッカーや会社経営に限りません。自分って結局どんな人間なのか?生きるって結局どういうこと?そもそも一言でまとめられるはずもないのに、いや、まとめられるはずがないと分かっていながら、「でも結局のところ、どうなの?」と問わざるを得ない。「結局病」にでも罹っているように。
もちろん、大真面目に「あなたにとって◯◯とは?」と聞くことの不毛さには多くの人が気づいていて、そこには「あえて聞くならば、ですよ」という態度が含まれるのも事実。また「一言でまとめようとする姿勢は思考の劣化を招く」といった評論家たちの「処方箋」もメディアに溢れています。でも、その処方箋こそが「結局病」の最も顕著な現れではないでしょうか?一言でまとめられないから「結局」、多角的な分析をするしかない、と。この病の煩わしさは、それを治療しようとする行為自体がその症状として現れる、という逆説にあります。
では、どうするか?「治療」を目指すのではなく、「症状」の発症をあえて繰り返すべきです。例えば私は子供の頃から内気で人との交わりを避けてばかりいました。現在もその性格は変わらず、コロナ禍で過去約3年間は在宅で仕事をし、家族以外で顔をあわせる人といえばコンビニやスーパーの店員くらいという生活ですが、すこぶる快適です。では私は結局、内向的な人間なのか?アメリカで16年暮らし、NY時代は大学で講義をし、友人とのパーティーを楽しみ、親友と雑誌の制作までしていた自分を「内向的」とまとめるのは不可能です。
「結局はAだ」とすると、そこに収まりきらないものが見えてくる。「Bだ」とすると今度はまた別のものが見える。病の発症を巧妙に繰り返すことで、「結局」以外のものが多面的に浮かび上がる。病を上手に発症させ続けることで病を克服する。結局、そうするしかないのでは。いや、他の方法があるとした方が、いや...。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

