受喜与幸 ~受ける喜び、与える幸せ~
vol.56 神様は単純さが好き1
2022-11-18
私は一三歳でハワイに渡りました。そのために日本の中学校を二年生になってまもなく、辞めることになりました。
母は、海外で勉強したいという私を快く送り出してくれ、医師になりたいという夢もいちばん応援してくれました。それでも、「末っ子のあなたと離れるのはひどく寂しかった」と、生前ときどき言われました。
父を早くに亡くし、急いで大人になろうとしていた私の気持ちに気づいていたのか、母は私に、勉強をしなさいと言ったことが一度もなかった気がします。むしろ「家にいないで遊んできなさい」と叱(しか)られたことのほうが記憶に残っています。
そのせいか、私は日本の学校では、ちっとも勉強熱心ではない生徒でした。みんなが気にする学校の成績に、まったく興味がもてなかったのです。その半面、先生がときどき出してくれるむずかしい問題なんかは、ムキになって解いていました。興味のあることには熱中するが、そうでないことはとことんやらない。そして、やると言い出したら聞かない。そんなちょっと〝困った〟子どもだったようで、日本の学校に息苦しさを感じていたのも、渡米の動機だったかもしれません。
母からよく聞かされた笑い話にこんなものがあります。「小学校低学年のころ、学校から帰ってきたあなたの筆箱は、いつも空っぽだった」と言うのです。母親が毎朝、きちんと削ったエンピツを五、六本持たせてくれるのですが、私は家に帰ってくるまでに、どこかへ置き忘れるか落とすかして、しょっちゅうなくしてしまっていたようなのです。ちょっと注意欠陥障害的なところがあったのかもしれません。
そんな私が「医師になりたい」という夢を叶(かな)え、その道で人のお役に立ち、そして新薬開発という歴史的な瞬間に立ち会うことができたのは、私がすぐれた人間だからではけっしてなく、大きな流れの中で、その一部を託されたのが、たまたま私だったということにすぎません。
多くの研究がそうですが、偉業を達成した人のすぐ後ろには、限りなくその偉業に近いところまで行った人が何人もいるものです。では、ゴールに手が届いた人と、届かない人の差は何か。端的にいえば、なぜ私が新薬の開発において、ここまでくることができたのかということになります。それはくり返しになりますが、優秀さとか能力の高さとは別次元にあると思えてなりません。なぜなら、謙遜(けんそん)で言っているのでも何でもなく、実際に私より優秀な研究者は山ほどいたからです。
次回に続く。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

