キム・ホンソンの三味一体
vol.180 「自由である」ということ
2022-11-04
日本の国会図書館の正面には、国立国会図書館法前文の一部として知られる「真理がわれらを自由にする」という言葉が刻まれているそうですが、元々この言葉は聖書の中のイエスの言葉から由来しています。「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)実は、この言葉には、自分達は神に選ばれた選民であると誇っていた当時のユダヤ人達に対する批判が込められています。自分が選民であるとしても、犯罪を犯したことがないとしても、スピード違反どころか駐車違反すらしたことがない、と自負する全ての人々に対して、真理を知るまではあなたたちは誰だって不自由でしかないのだと言っているのです。
自由というと、私たちはすぐある義務や責任からの自由を連想します。テストからの自由、子育てからの自由、コロナ禍の色々な制約からの自由などがそうです。しかし、ここでイエスが言っている自由とは、そのような自由とはレベルのちがう自由なのです。「何々から」の自由ではなく、「何々への」自由です。何かをしなくても良い自由ではなく、むしろ何かをしていくことのできる自由です。
私たちが困った人に出会った時、その人を助けようとした時、私たちは大きな障害にぶつかります。「その人を助けたい気持ちはあるけれども、相手にお金を与えるほど自分はお金持ちじゃない。助けたいのは事実だけれども、自分まで危ない目に遭うかもしれない。」その大きな障害とは、自分自身に他なりません。私たちは自分のエゴによって縛られ不自由な存在だというのです。
しかし、イエスは、真理を知ることであなたたちは本当の意味で自由になると言います。その真理というのは他でもない神の意志のことです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16)私たちにとっての良き知らせ「福音」とも言われるものです。
キリストイエスが自ら命を犠牲にしたほど、人々を愛していくことにおいて自由だったことを知ること。そして、その愛される「人々」の中に自分も含まれている真実を知ることで、私たちも少しずつ自分のエゴから自由になることができるのです。
礼拝:日曜日午前10時(ハンティントンビーチ)、日曜日午後2時(トーランス)
お問い合わせ:khs1126@gmail.com (310) 339-9635
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

