キム・ホンソンの三味一体
vol.179 「救われる」ということ
2022-10-13
聖書に書かれているイエスは、人々へと教えを説くと同時に人々の病を癒すという奇跡も行なっています。その癒しの出来事の中に一つユニークなケースがあります。ほとんどの場合は、その場で病人に触れて癒すのですが、このケースでは時差をおいて癒しています。重い皮膚病のために強制的に村の外に隔離されていた10人の人々に、イエスは皮膚病の方はその内に治るから今すぐ祭司のところへ行き、治った体を見せてそれぞれの家に戻っても良い許可をもらいなさい、と言います。そして、その言葉は現実となり祭司へと向かっていた全員の症状がなくなりきれいな肌になったのです。ところで10人の内のある一人が、うれしいあまり祭司に会うことを後回しにして、イエスのところに戻ってきて平伏して感謝しました。するとイエスはその人に対して「あなたの信仰があなたを救った」と言ったのです。
不治の病が治ったとするならば、それこそ「救い」だと思いがちな私たちですが、イエスによれば病気の癒しイコール「救い」ではないのです。戻って来たこの人は、それまで病が治れば祭司に体を見せて、元の生活に戻る許可を得ることだけを切に求めていました。当時、病人というのは、自分か先祖が犯した罪の結果だとし、罪の汚れが移ることを恐れ避けられていた存在でした。しかし、彼はイエスに会って病気にかかっていようがいまいが、人々に汚れた者だと指さされ避けられていようがいまいが、そんなこととは関係なしに自分という存在を認めて受け入れてくれている存在に気づいたのです。だからこそ、家に戻る許可をもらうことを後回しにして、神を賛美しながらイエスのところに戻って来たのです。
神によって自分は受け入れられている。愛されている。憐れまれている。この事実を受け入れることこそ信仰なのだと。病が癒されたことではなく、その信仰によってあなたは救われたのだ、とイエスは言っているのです。神によってありのままの自分が受け入れられ、良しとされている事実を受け入れることは、あるがままの自分を肯定することです。そして、あるがままの自分を肯定するとは、人と比べて問題があり不完全だと言われるとしても、ありのままの自分の人生を肯定し幸せだと感じることができるということです。自分という存在の良不良を社会の通念や他人の判断に委ね、それに縛られることから解放されて、救われるということです。病気が治る。悩みが解決される。難から逃れる。それだけじゃダメなのです。救われなければならないのです。
礼拝:日曜日午前10時(ハンティントンビーチ)、日曜日午後2時(トーランス)
お問い合わせ:khs1126@gmail.com (310) 339-9635
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

