受喜与幸 ~受ける喜び、与える幸せ~
vol.46 自分の力で何でもやろうと思わない1
2022-09-09
何でも自分の力でしようとせず、物事は半分くらいまで自力を尽くしたら、残りの半分は、自分よりもっと大きな存在にまかせてしまう。そんな「前向きの放棄」を覚えることも大切です。
種を蒔(ま)くときに、どの種を蒔けばいいのか、どの種がいちばん生長して、大きな実を結ぶのか。自分の力だけで作物を育てようとすると、この心配から離れることができず、その結果、もてる力を十分に発揮することがむずかしくなることがあります。
そういうときは、どれがいい種で、どれが悪い種なのか、どれが実を結んで、どれが結ばないかなどと必要以上に思いわずらうのはやめて、ただ自分の足元に種を蒔くことに専念する。あとは天候や風土の条件、つまり天の意思にまかせてしまう。
この「おまかせ」の姿勢が物事の成就にはいい結果を与えるようです。以前の私は、このまかせることがなかなかできない、窮屈な人間でした。
たとえば、若いころの私は、自分の小さな間違いがゆるせませんでした。ですから、朝起きる時間が遅れてはいけない。学校へ遅刻してはいけない。そんな「ねばならない」規律で自分を縛りつけて、それに違反してしまったときは、その日一日、ひどいときには一週間くらい、ずっと「おれはダメな人間だ」と自己嫌悪にさいなまれていました。
自分に厳しいといえば聞こえはいいのですが、いかにも融通がきかず、余裕がない生き方です。自分の行いや振る舞いは立派なものであるべきで、その立派さをすみずみまで自分でコントロールしなければならない。それができない人間は未熟で無能である。そんな自力偏重主義に凝り固まっていたのです。言い換えれば、自分の無力を素直に自覚できないでいました。
だから、朝一番に「今日一日、いい行いをさせてください、他人にもやさしく接しさせてください」と祈りながら、出かけて三〇分もしないうちに、もう自分の言うことを聞いてくれない患者さんに腹を立てている。そんなことがしょっちゅうありました。しかも、「なぜ、自分の祈りを聞き届けくれないのだろう」などと、天に向かって不平すら口にしていたのです。
しかし時がたち、年齢を重ね、失敗も重ねるにつれて、だんだんと自分の力の限界というものについての理解が深まってきました。自分に何ができて、何ができないか。自分にできることはいかに少なく、できないことはいかに多いか。
人生の経験を積むにしたがって、自力のいたらなさ、非力、不完全さ。すなわちおのれの無力を自覚して、それが素直に受け入れられるようになってきたのです。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

