キム・ホンソンの三味一体
vol.177 殺してはいけない。盗んではいけない。
2022-09-02
聖書の中に書かれているイエスは、反骨精神に満ちた革命家のような人物です。特に掟を形だけ守っているユダヤ人の宗教指導者たちを痛烈に批判しました。働いてはいけないとされている安息日に人を癒したとして、イエスを批判した人々に対しては、「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。」とまで言ったのです。イエスは、掟のために人があるのではなく、人のために掟があるのだと明言しました。掟や法律、規則やルールといったものは、社会にとって必要なものですが、それらの掟の趣旨を汲み取って守らなければ、本当の意味で守れていることにはならない、とイエスは考えたようです。
十戒といえば真っ先に頭に浮かぶのは、「殺してはならない」、「盗んではならない」です。そして、これらの掟をイエス風に解釈するならば、殺さなかったので、盗まなかったのでオッケー、ではないのです。「あなたたちは殺してはならない。むしろ生かせなさい。命を守り救いなさい。命をもたらせなさい。」というのが掟の趣旨だと言っているのです。「私が殺してないからセーフ」ということにはならない。その人を助けようと、その人の命を救おうとする努力こそが、殺してはならないという律法を通して私たちに求められている神の御心である、とイエスは教えているのです。「殺してはならない」という掟は、人を生かし、命を救うことが前提となっているのであって、もしそれができないのだとしても、少なくとも殺してはならない、という最低限の基準を示しているものです。同じく、「盗んではならない」も、貧しい人々に施し与えることができないのだとしても、少なくとも盗んではならないということだ、とイエスは教えているのです。
これは現代を生きる私たちにも、当てはまることではないでしょうか。傷つけたり、殺したり、盗んだり、奪うなどのことを実際しなかったとしても、時に私たちは加害者の立場にいることがあるのではないのでしょうか。人が傷つけられているのを見ながらも、自分とは関係ないとして傍観したり、人が酷い扱いを受けているのを知っていても無関心でいられる時、私たちはその罪に加担しているのです。
礼拝:日曜日午前10時(ハンティントンビーチ)、日曜日午後2時(トーランス)
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※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。