受喜与幸 ~受ける喜び、与える幸せ~
vol.42 「無力」の力 2
2022-08-13
医師になったばかりで、内科の研修医としてオハイオ州の病院で働いていたころのことです。担当していた患者さんのひとりに、若輩の私をすごくかわいがってくれた〝おばあちゃん患者〟がいました。
そのご老人は半年前に乳がんの手術を受け、予後の治療のために私のいる病院に通院していたのですが、医師としてはまだ半人前の私に何くれとなく目をかけてくれ、あれこれ気やすく話を交わすなど、まるで孫のように接してくれていました。
来るたびに家でとれたという野菜をどっさりお土産(みやげ)に持参してくれて、いつしか付き添いの娘さんたちとも仲よくなって、医師と患者という立場を超えた親しい交流が続いていました。
やがて研修期間も無事に過ぎ、今日で研修を終えて、明日はロサンゼルスの病院に移るという日、その午後も野菜を抱えてやってきた彼女に、私はあいさつがてらの軽い気持ちで、今日が研修最後の日で、仲よくしてもらったおばあちゃんともお別れであることを告げたのです。
すると、いつもにこやかだった彼女の顔がにわかに陰ってしまいました。表情はこわばり、陽気におしゃべりしていた口をぴたりと閉ざしてしまったのです。
私はあわてて、「突然のことですみません。でも、ぼくよりもずっといい先生が後を引き継いでくれますから」ととりなしましたが、彼女の笑顔が完全に戻ることはありませんでした。
診断で脈をとってみると、心なしか不整脈の気も感じられます。そこで念のため心電図をとってもらうように彼女を心電図の専門セクションに送って、私は前の業務に戻りました。緊急対応ではなく、一般の検査としてお願いしたため、結果は次の日に私に知らされることになっていました。
おばあちゃんは心電図をとって帰宅しました。しかし、その日の深夜、心臓発作を起こしてしまったのです。すぐに救急車が呼ばれ、ふたたび病院に運び込まれましたが、緊急処置のかいなく息を引き取ってしまいました。
そのとき私はすでに勤務を終えて自宅に帰っており、彼女の手当てをしてあげることも、臨終の場面に居合わせることもできませんでした。
翌日、知らせを聞いて病院に駆けつけ、そこで遅まきながら心電図を見てみると、あきらかな不整脈の症状を示しています。そのまま家へ帰さずに、その場で精密検査をほどこしたほうが妥当であったのは明白でした。
私の心は取り返しのつかない後悔の念でいっぱいになりました。脈の不調を感じたとき、なぜ、もっとシリアスなケースを想定しなかったのか。なぜ専門技師に心電図をとらせるだけでなく、自分もその場で心電図を読もうとしなかったのか。
心電図をとった専門技師がその異常を私に知らせてくれれば、しかるべき処置がとれたにちがいない。病院に担ぎ込まれたときに私を呼び出してくれれば、より適正な処置をほどこせたかもしれない……など、防げたであろう不作為の過失を、幾度も思い返しては悔いたのです。(次回に続く)
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。