キム・ホンソンの三味一体
vol.175 無意味なプライド
2022-07-15
聖書の中にイエスの賢さを試そうとした律法学者が、永遠の命を受け継ぐにはどうしたらいいのかとイエスに聞きました。イエスが、律法にはなんと書いてあるか、と反問すると、彼は「あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」、とあると答えます。すると、イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。」と言ったのです。
しかし、大勢の面前でこれを言われた律法学者はプライドが傷つきました。そもそも真実に飢え乾いて聞いたのではなく、ただイエスを試してみたくて投げかけた質問でした。しかし、返ってきた答えは、「君はよく知っている。ただ実行できていない。これからは実行しなさい。」でした。口先だけで行動を伴わない学者に過ぎない、と言われたようなものです。「このまま恥をかくわけにはいかない。どうにかしてメンツを保ちたい。」と彼の頭はフル回転します。そして、幸運にも、彼は自分で考えてもすごいと思えるような強力な反撃の一手を思いつくのです。「では、わたしの隣人とはだれですか」、これは、イエスへの罠ともいうべき質問でした。本当に自分の隣人が誰だか分からなくて聞いているわけではありません。ユダヤ人にとっての「隣人」とは、当然同じユダヤ人だということは、誰でも知っている常識でした。しかし、イエスは、交わりをもってはならないと言われていた異邦人等の人々に対しても、ユダヤ人にするのと同じように接していたことを、彼は噂で聞いて知っていたのです。そこで、もしイエスが「それはもちろんあなたの同胞であるユダヤ人だ」と答えれば、「では同じくユダヤ人であるあなたは、なぜ異邦人や罪人たちと交わりを持っているのか」と反論できるチャンスが、彼にはあったのです。きっと彼は、イエスを論破する確かな手応えを感じながら、興奮の内にこの質問をしたに違いありません。しかし、イエスはかの有名な「善きサマリア人の譬え」を通して、隣人とは自分の同胞かどうかではなく、自分の選択で相手の隣人となっていくものだ、ということを教え悟らせるのです。
私たちは、どうして真実の前で謙虚にいられないのでしょうか。真実よりも無意味なプライドを優先し、事実を認めないで自分が信じたいことだけを選んで見聞きすることがあまりにも多いのではないでしょうか。一度自分を空にして、アルゴリズムが勧めるコンテンツではなくて、真実の声に耳を傾ける一時を持ちたい今日この頃です。
礼拝:日曜日午前10時(ハンティントンビーチ)、日曜日午後2時(トーランス)
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※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。