キム・ホンソンの三味一体
vol.172 ペンテコステ
2022-06-03
教会では「原罪」ということをよく耳にします。犯罪などのように自分の選択で犯したり犯さなかったりできるものではなく、生まれながらにして持っている罪。そして、人間の力ではその束縛と支配から自由になることができない罪のことを言います。創世記は、人が自分を創造した神との関係を断って、自分の欲求と理想を追求するために独自の生き方をはじめる姿を、エデンの園を後にする「アダムとイブの堕落物語」として描いています。私たちは、そのアダムとイブの末裔が築き上げてきた文明とその中での価値観や秩序といった世の中のシステムの一部となって生きているのです。聖書は、生まれながら否応なく自動的にこのシステムに組み込まれてしまうことそのものが原罪だ、と言っているのです。
私達は普段、それこそ一般市民として普通の生活をしながら、人を傷つけるどころかむしろ人に迷惑をかけないように気をつけながら、どちらかと言えば善良な生き方をしています。しかし、そのような私達であるにも係わらず、自分達の意志に反して罪をおかしている現実があります。たとえば、良い品質のものを少しでも安い値段で手に入れたいという私達の需要に応えて、アウトレット等ではブランドのものでも随分と安く買うことができます。そして、その裏では貧しい国々で子供達を含めて多くの人々が劣悪な環境の中で労働力を搾取される現実があります。
考えてみますと、豊かな国で暮らして、物を消費して、生活を営んでいる、というだけのことが、生きていることそのものが、世界のどこかに住む貧しい人々の犠牲の上に成り立っていることになります。私達の意志を超えたところでのこの罪の構造、システム化された罪のしがらみから自由になることはできないのです。
ところが聖書は、イエスキリストによって神と人間の関係が回復されたといっています。イエスを信じる者には神の霊が注がれ、この罪の構造を壊す力が与えられると書かれています。自分を犠牲にしながらも生涯を飢餓の問題や難民の救済などに捧げる人々をはじめ、困った人に助けの手を差し伸べる私たちの周辺の心優しい人々こそ、神の霊が注がれた証拠だと思います。6月5日は、2000年前に初めて神の霊が人々の上に注がれた日、ペンテコステと呼ばれる祭日です。
礼拝:日曜日午前10時(オレンジ・カウンティ)、日曜日午後2時(トーランス)
お問い合わせ:khs1126@gmail.com (310) 339-9635
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。