キム・ホンソンの三味一体
vol.171 私の行動を見てあなた達が判断しなさい
2022-05-12
聖書にはイエスのことをメシア、すなわちイスラエル民族をローマの支配から解放するために神に遣わされた王かもしれないと期待していた当時の人々の様子が書かれています。民衆の方の期待は純粋なものでした。しかし、宗教指導者達の場合は「期待」というより「不安」といった方が正確かもしれません。イエスが本当にメシアなら自分達は権力の座から追われると考えてイライラしていたのです。そこで彼らは「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」とイエスに詰問したのです。それに対してイエス「わたしが父(神)の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。」とだけ答えました。要するに今までの私の行動を見てあなた達が判断しなさい、という意味です。
イエスはそれまで一度も自分をメシアだと公に発表したことはありませんでした。しかし、それまでの行動を見ると、安息日には働いてはならないという掟を破って病気の人を癒したり、当時人々に嫌われ差別の対象だった徴税人や娼婦を弟子として受け入れたり、ハンセン病の人々や障害を持つ人々、異邦人をはじめ罪人として烙印を押されていた人々、そして、重荷を負った全ての人々の痛みに深く共感し慰めの教えを説いていたのです。今になってみると一民族のメシアに留まらない全人類のメシアとしての行動でしたが、当時の権力者達の目からすれば、イエスはただの律法違反者であり、民衆に対する煽動者に過ぎませんでした。
最近観た韓国ドラマの中でお見合いを終えた男女の面白い会話がありました。女性が男性を断るシーンですが、その理由が「私はもっと利己的な人が好きですから」でした。要するに、あなたは自分の奥さん、子供、自分の家族だけを大事にするような人でないから嫌です、と言っているのです。日本語でも、人が良すぎる、バカ正直など弱肉強食の価値観からみて善良さをも弱点としてみなす言い回しがあります。そして、それはただの言い回しではなくて私たちの生きる社会の現実なのかもしれません。にもかかわらず、世の中には人にどう思われようと自分が誰であるかを口先ではなく黙々と行動で表している人々もたくさんいるのではないでしょうか。ぐらつきながらもそれらの人々に倣って歩みたいと思う今日この頃です。
礼拝:日曜日午前10時(オレンジ・カウンティ)、日曜日午後2時(トーランス)
お問い合わせ:khs1126@gmail.com (310) 339-9635
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。