キム・ホンソンの三味一体
vol.168 もし希望があるとするならば
2022-04-01
イエスが語った多くの譬(たと)えの中に「放蕩息子の譬え」というのがあります。ある人に息子が二人いたが、ある日、弟の方が父親に遺産を前借りさせてほしいと頼みます。そして自分の分け前をもらった弟は家を出て遠くへ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果たしました。ところが、全てを浪費してしまったうえに、今度は大飢饉が起こってしまい、彼はもはや食べるものにすら困るようになり窮地に追い込まれます。彼は、自分を雇い人の一人にして欲しいと父親に頼むことを決心し、恥を忍んで自分が出て来た家に帰りました。すると、父は彼が家に着くずっと前に先に彼に気づきます。父は待っていたのです。息子が帰ってくるのを、今か今かと待ち焦がれて、毎日毎日外に出て、遠い地平線を眺めて息子を待ち続けていたのです。父は誰よりも速く家を飛び出して走って彼を迎えに行きました。そして、息子に謝罪をする間も与えず、息子の首を抱いて接吻をします。すでに赦していたのです。息子は悲痛な思いで父に詫びる。しかし父は「雇い人」にしてくれ、と言うはずだった息子の言葉をさえぎって、「一番良い服を着せ、指輪をはめ、履物を足にはかせなさい」と僕(しもべ)に言いつけました。そして、肥えた子牛をほふって祝宴を始めてしまうのです。そこに兄が帰ってきて「真面目に父に仕えてきた自分には友達と宴会をするために子ヤギ一匹すらくれなかった。なのにあなたの身上を食いつぶして帰ってきたあいつのためには肥えた子牛を与えるとはどういうことか。」と詰め寄ります。すると、父は「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」と言いました。
イエスはこの譬えを通して、自分より劣る者を情け容赦なく裁くことで自分の正しさを誇ろうとする私たち人間の価値基準と、神のそれは全く違うのだということを教えています。神は私達とは違って、愛と憐れみをもって悔い改める人を抱きしめて何度でも受け入れてくれる存在なのだというのです。どんなにダメでだらしないとしてもありのままの自分が受け入れられるところがあると知ることは大きな慰めです。
地球の天敵は人類である。開発との美名のもとに行なわれた環境破壊によってこの世の終わりは秒読みに入っている、というようなことをよく耳にします。このようなどうしょうもない人類に、もしまだ希望が残されているとするならば、それは科学技術などではなく、私たちへの神の愛と憐れみに違いないと思う今日この頃です。
礼拝:日曜日午前10時(オレンジ・カウンティ)、日曜日午後2時(トーランス)
お問い合わせ:khs1126@gmail.com (310) 339-9635
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。