受喜与幸 ~受ける喜び、与える幸せ~
vol.20 何も与えられなければ、ただそこにいればいい1
2022-03-11
苦しみにも意味があると前にいいましたが、だからといって、意味が見つかるまで苦しんでいろと患者さんを突き放すわけにはいきません。苦しみを取り除き、病気を治す努力は、医師が行わなければならない責務です。
しかし、治せる病気ばかりではないのも厳然たる事実で、むしろ、現在の医療水準をもってしても治せない病気のほうが多い。そこに医師の無力感もあります。
けれども、その「治す」よりも以前に、医師にはもっと大きな役割があります。それは医師が医師で「いる」ことです。病院があって医師がいる。それはすなわち、患者さんの行く場所がそこにあるということだからです。
子どもが転んでひざを擦りむいた。たいしたケガではないけれども、「お母さーん」と泣きながら母親の元へ駆け寄っていく。このとき、頼っていくお母さんがそばにいるのといないのでは、子どもの心身の「痛み」に大きな差が生まれてくるはずです。
それと同じ意味で、患者さんの心と体にとっては、そこに医師がいるだけで大きな安心材料となるのではないでしょうか。医師が「いる」こと、医師で「ある」ことは、「治す」行為よりも大きな医師の存在意義といえるのです。
盲腸炎の患者さんの盲腸を切除してやる。そうした施療行為は、実は医師のもつ役割のうちのごく小さい部分でしかなく、それよりも「盲腸になったら、あそこにいる医師に駆け込めばいい」という存在自体が患者さんの心身に与える安心感。そっちのほうに、ずっと大きな医師の存在理由があるのではないでしょうか。
その証拠に、治療技術などまったく未開なころから医師という職業は存在していました。がんの専門医ができたのは一九七〇年代のことですが、当時、何百種類とあるがんのうち、治療法が確立していて治せるがんというのはひとつかふたつしかありませんでした。
それでもがん専門医というポジションができ、高いお金を払って患者さんが訪れてきました。つまり、医学の非力にもかかわらず、治療以前の問題として、患者さんは医師の存在を必要としていたのです。
この事情はいまでもあまり変わっていません。「この抗がん剤の効き目は低い」とわかっていながら医師に施療をしてもらう。医師も効く可能性が低いと知っていて処方する。
けれど、そのことにまったく医学的な意味がないかといえば、そうとばかりもいえないと思います。施療してくれる医師がいる……そのこと自体が患者さんの心に精神的安定感を与え、また身体的にも治療効果をもたらすからです。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

