キム・ホンソンの三味一体
vol.165 不幸は幸い、幸いは不幸
2022-02-18
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。...しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。」(ルカ6:20-25)
これはよく知られるイエスの説教の一部です。常識的に考えるとまるでナンセンスに思えて首を傾げてしまいます。しかもこれを聞いていた人々はほとんどが貧しく、飢えていて、世の不条理に嘆いていた人ばかりでした。掟によって働いてはならないと決められていた安息日(土曜日)にも貧しさ故に働かざるを得なかった人々、神殿に捧げる生け贄を買うお金すらなかった人々、つまり罪人だとされ神の救いとは無縁だと蔑まれていた人々が、わらをも掴む思いでイエスに救いを求めて集まって来たのです。なのにそのような人々に対してイエスは「貧しい人々、飢えと悲しみを抱えたあなたがたは幸いだ」と言ったのです。それを聞いた人々は驚いたに違いありません。ではイエスの真意は何だったのでしょうか。それは、彼らが痛み、悲しみ、嘆きを抱えていたがために、本当の救いを求めて救い主のもとに来ることができた。そのことが幸いだと言っているのです。ここでイエスは彼らのために十字架にかかり彼らを救うと宣言しているのです。
それに比べて富んでいて満腹している人々は不幸だと言いました。これは何も金持ちはそれだけでもって救われない部類の人々であると言っているのではありません。この世的に満ち足りた状態では、人間の弱さと人生のはかなさに気づいて、そこから本当の希望を求めることがなかなかできない。いくらお金があってもあらゆる保険に加入していても私たちの人生は依然と不確かなものに過ぎません。しかし、そのような良い意味での「不安」を感じる度、自分の銀行口座の残高、乗っている高級車や使っているブランドのバックをみながら、自分は幸せに違いないと思い込み、本当の救いを求めることができない。そのことが不幸だと言っているのです。
人生の歩みの中で私たちは予想外の色々な困難や苦しみに遭遇し悩まされることがあります。しかし、だから不幸なのではない。その苦しみを通してしか気づくことのできない希望がある。苦しみを抱えたままでも自分は幸いだと言える心の平安、心の救いが与えられることがあるのです。
礼拝:日曜日午前10時(オレンジ・カウンティ)、日曜日午後2時(トーランス)
お問い合わせ:khs1126@gmail.com (310) 339-9635
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。