キム・ホンソンの三味一体
vol.163 日ごとの糧を今日も与えたまえ
2022-01-21
クリスチャンになると「何々することなかれ」にがんじがらめにされそうでごめんだ、ということを耳にすることがあります。特にお酒を飲んではいけないという印象が一般的にはあるようですが、実は禁酒というキリスト教の教えはありません。キリスト教の主な儀式である聖餐式ではワインが欠かせませんし、イエスが初めて起こした奇跡も水をワインに変えるものでした。さらにはイエス自身も「大酒飲み」だと悪口を言われたことすらあるのです。2000年ものキリスト教の歴史において、ワインは日々の生活の一部としてごく普通に親しまれ消費されてきました。ワインを含めアルコール全般を禁じたのは19世紀半ばある一部のプロテスタント教会から始まったとされています。しかし、現時点でグロバールな視点からいうと禁酒を強いる教会はごく少数です。それは、キリスト教においてワインはただのアルコールを意味するものではないからです。ワインは、ぶどうの実りから来る充実感、生きる喜びなどといった神からの祝福を象徴しているのです。そして、神の祝福はといえば、ワインだけに限られるものではありません。私たちの人生をさらに喜ばしいものにしてくれるもの、さらに味わい深いものにしてくれるものすべてを指しています。
宗教改革を果たし現在のプロテスタント教会の生みの親に当たるルターは、主の祈りの中での「日ごとの糧を今日も与えたまえ」といった時の「日ごとの糧」とは、生きていくために必要な最低限の食料のことだけを指しているのではないと解釈しています。つまり、どうか今日も命を維持出来るだけの食料にありつけますように、ではなく、食料のみならず生きる上での喜びや楽しみを今日も与えたまえ、といっているのです。例えば、良い伴侶と家族、子供達の笑顔、良き友、最高のステーキ、美味しいワイン等々、私達の人生をさらに喜ばしく、楽しく、味わい深い豊かなものにしてくれるものを与え続けてくださいという願いなのです。
神は、罪の赦しと救いだけを与える神ではなく、なんと私達の人生における些細な喜びをもさえ与え祝福する神なのです。神にとって私たちが喜びであるように、私たちにとっても喜び、楽しみが必要だということを、神は誰よりも良くご存知であることを、庭で摂れたアボカドの美味しさにビックリながらふと思った今日この頃です。
礼拝:日曜日午前10時(オレンジ・カウンティ)、日曜日午後2時(トーランス)
お問い合わせ:khs1126@gmail.com (310) 339-9635
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。