キム・ホンソンの三味一体
vol.162 ごう慢の山、蔑視の丘
2021-12-17
イエスが生まれる800年ほど前に書かれたとされるイザヤ書の中にイエスキリストについての預言があります。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲った道はまっすぐになり、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」つまり、救い主イエスがハッキリと目に見えるように視界を防ぐ山や丘を低くして道を真っすぐにしなさい、という意味です。イエスが本格的に教えを説いていた当時、神の救いを手にすることが出来るのは、宗教的権威をもつ指導者達、律法を守り抜くに十分な富を持っていた人々のみだと考えられていました。しかし、イエスは能力や身分に係わらずすべての人が等しく神に愛されていると宣言したのです。権威や権力や富などを最高とする世俗的な価値観こそ救い主を見られなくする山や谷であるとイザヤ書は警告しているのです。
それから2000年以上経った今でもこのような山や谷は依然と存在するのではないでしょうか。世俗的な価値観によって子供でさえ誰かを見下すことがあるのです。私が小学校2年生の時のソウルでのことです。一時、家の近くの路地に一人の物乞いの老人が来るようになりました。学校に行く度にそのホームレスのおじいさんの前を通るのですが、おそらく何ヶ月も体を洗っていないのかひどい匂いがしていました。ところで、当時、学校では「挨拶習慣を身に着けましょう」というキャンペーンのようなことをしていて、登校、下校中に会うすべての目上の大人に挨拶をすることになっていました。ところである日、ふと自分は今まであの物乞いのおじいさんにだけは挨拶をしていなかったことに気づいたのです。たまたま晩ご飯の時にその話題が出て「乞食のおじいさんになんか挨拶しなくて良いよね?」って私が言ったのです。すると一番上の兄が「そのおじいさんも、隣りのうちのおじいさんと同じように目上の人なんだ。そのおじいさんに挨拶をしないのであれば、他の人にいくら挨拶をしても意味がない。」と言ったのです。子供ながら兄に言われたことが心に刺さって、今度は必ず挨拶しようと向かった翌日。いつもの場所からそのおじいさんはいなくなっていました。そして、何日が経ってもけして戻ってはきませんでした。
私達の心の中にもごう慢と蔑視という山や丘があるのではないでしょうか。心の中のこのような山や丘が削られた時、愛と希望と救いそのものである救い主を見ることができると信じながらクリスマスを待ち望んでいる今日この頃です。
礼拝:日曜日午前10時(オレンジ・カウンティ)、日曜日午後2時(トーランス)
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※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。